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Tsugaru Soto Sangunshi


(コンテンツの総てはYahoo他の記事をコピペしたものです)


田楽男







十三湊歴史Map     ひーさんの散歩道         蝦夷

『東日流外三郡誌』
Wikipediaからの解説文

『東日流外三郡誌』は、青森県五所川原市飯詰在住の和田喜八郎[2]が、自宅を改築中に「天井裏から落ちてきた」古文書として1970年代に登場した。編者は秋田孝季と和田長三郎吉次(喜八郎の祖先と称される人物)とされ、数百冊にのぼるとされるその膨大な文書は、古代の津軽地方(東日流)にはヤマト王権から弾圧された民族の文明が栄えていたと主張する。

アラハバキを「荒羽吐」または「荒覇吐」と書き、遮光器土偶の絵を載せ、アラハバキのビジュアルイメージは遮光器土偶である、という印象を広めたのも、本書が「震源」である。

同書によれば、耶馬台国の中に邪馬壱国があったという。前7世紀の日本各地には津止三毛族とか奈津三毛族とか15~16の民族が割拠していたが、そのうち畿内大和(現在の奈良県)にいて安日彦と長髄彦の兄弟(安日彦、武渟川別、長髄彦の三兄弟ともいう)が治めて平和に暮らしていたのが耶馬台国で、日向(現代の宮崎県)にいたのが「日向族」(神武天皇の一族)であった。

耶馬台国の中に邪馬一国、邪馬二国、邪馬三国があったという(つまり邪馬壱国とは邪馬一国のこと)。日向族は台湾の高砂族が北上してきたものだが、その一族を支配するのは巫女で、火を操るヒミコ、水を操るミミコ、大地を操るチミコの三姉妹で、その出自は「アリアン族」だったという。

つまり卑弥呼は九州の女王で、畿内にあった邪馬台国とは無関係ということになる。日向族は筑紫(現在の福岡県)の「猿田族」を酒と美女で騙し討ちにして滅ぼし、破竹の勢いで東進。この時、兄弟の父・耶馬台彦は長門(現在の山口県)に2万の軍で布陣したが迂回され、大和での日向族と耶馬台国との戦いは熾烈を極め、安日彦は片目を射られ、武渟川別は片腕斬断、長髄彦は片脚を失う激戦の末、遠く津軽に落ち延びた。

これより前、津軽にははじめ阿曽辺族(アソベ族)という文化程度の低い未開部族ながらも温厚な種族が平和に暮らしていたが、岩木山が噴火して絶滅しかかったところに津保化族(ツボケ族)というツングース系の好戦的で残虐な種族が海からやって来て阿曽辺族を虐殺し、津軽は津保化族の天下となった。

その後、中国の晋の献公に追われた郡公子の一族がやって来て津保化族を平定、ちょうどその頃神武天皇に追われた耶馬台国の一族もやって来た。郡公子の娘、秀麗、秀蘭(香蘭とも)の姉妹を安日彦と長髄彦は娶り、諸民族は混血して「荒羽吐族」と号し、「荒羽吐5王」の制(津軽を5区に分けたのか東北地方を5区に分けたのかは判然としないが後者のようである)を敷いて治めたが、これが大和朝廷からは「蝦夷」と呼ばれたのだという。

従って蝦夷には元々は中国の文化が色濃く入っていたのである。蝦夷の首領(安日彦と長髄彦のいずれかの子孫のように書かれているがどちらの子孫なのか判然としない)は、代々「津軽丸」を襲名し、ヨーロッパの国王のように「津軽丸何世」と名乗った。

神武天皇崩御の後、荒羽吐系の手研耳命は大和を支配すること3年。懿徳天皇崩御の後、荒羽吐軍が南下し、空位ならしめた。その後、荒羽吐系の孝元天皇を擁立して大和を間接支配した頃、不老長寿の秘薬を求める秦の始皇帝の使いとして徐福が津軽を訪れ、津軽の文化が中国に似ているので驚いたという。津軽丸は荒羽吐族が中国人との混血であることを解説し、徐福にカモメの金玉を授けた。

その後やがて、朝鮮半島から「カラクニ皇」なる者(崇神天皇?)がやってきて大和方面は奪われてしまったという。しかし中国の歴史書にでてくる「倭の五王」とは実は日本の天皇ではなく津軽丸のことだったのである。奈良時代には荒羽吐系の孝謙天皇を擁立。その後も津軽丸は万世一系に続き、安倍貞任を経て、安東氏(安藤氏)に至るのである。

なお和田が生前主張していたところによれば、安東氏後裔との伝えを持つ秋田氏が藩主の陸奥三春藩を襲った大火で舞鶴城所蔵史料が焼失したため、藩主の命を受けた秋田孝季が妹婿の和田長三郎吉次や菅江真澄らの助力を得て、寛政年間から史料蒐集や諸国踏査を行い、その成果が和田家に秘蔵されてきたとされた[3]。

十三湊は、安東氏政権(安東国)が蝦夷地(津軽・北海道・樺太など)に存在していた時の事実上の首都と捉えられ、満洲や中国、朝鮮、欧州、アラビア、東南アジアとの貿易で栄えた。欧州人向けのカトリック教会があり、中国人、インド人、アラビア人、欧州人などが多数の異人館を営んでいたとされる。それどころか、満洲の地に残る「安東」の地名は安東氏の足跡なのだとする。しかし「興国二年の大津波」(1341年、南朝:興国2年、北朝:暦応4年)によって十三湊は壊滅的な被害を受け、安東氏政権は崩壊したという(津波はその1年前ともいう)。


経緯

和田がこの文書群を青森県北津軽郡市浦村に提供し、市浦村は1975年(昭和50年)から1977年(昭和52年)にかけて、『市浦村史 資料編』(上中下の三部作)として刊行した。だが後にその内容をめぐって論争が相次ぎ、大反響を呼んだ。

和田による古文書の「発見」は、1949年(昭和24年)頃から始まっている。ただし、初期の古文書は地中から掘り出したとされていた(当時、和田家邸宅は藁葺屋根で、まだ天井裏がなかった)。1983年(昭和58年)に北方新社版『東日流外三郡誌』の刊行が始まった際、“東日流外三郡誌”はそれまでに和田が発見した古文書の総称とされ、かつては地中から掘り出したとされていた文書もその中に加えられた[4]。その後の構想の拡大で、明確に「東日流外三郡誌」以外の題を冠した古文書(実際には偽書)も和田喜八郎の手元から続々と出てくるようになった。

『東日流六郡誌絵巻』『東日流六郡誌大要』『東日流内三郡誌』『北鑑』『北斗抄』『丑寅日本記』『奥州風土記』などである。ちなみに『東日流外三郡誌』と題さないそれらの文書も上記の内容を共有している。そのため、和田の手元から出た古文書には『東日流外三郡誌』と題する題さないを問わず、共通の用語や重複した説話が多々見られる。 結局、和田は1999年(平成11年)に世を去るまで約50年にわたってほぼ倦むことなく(本人の主張では天井裏にあった箱から)古文書を「発見」し続けた。

和田喜八郎の没後、遺品として遺された文献は段ボール箱で20個分ほど、その大部分は刊本であり、肉筆によるものは巻物が25点、冊子本が46点だった(ただし、この冊子には実際に江戸時代に書かれた写本小説も含まれている)[5]。

しかし、その中には喜八郎の生前に活字化された内容と同じ『東日流外三郡誌』の底本は含まれていない(和田は論文盗用をめぐる裁判において『東日流外三郡誌』の底本は紛失したと主張した)。喜八郎が生前に個人や自治体に事実上売却した「古文書」も多数あったため、それらをも含めた総数はつかみにくいのが現状である[要出典]。


真偽論争

『東日流外三郡誌』(およびその他の和田家文書)については、考古学的調査との矛盾(実際の十三湊の発掘調査では津波の痕跡は確認されておらず、また十三湊の最盛期は津波が襲ったとされる時期以降であったらしい)、「古文書」でありながら、近代の学術用語である「光年」(そもそも光速が有限であることが証明されたのは17世紀後半である)や「冥王星」「準星」など20世紀に入ってからの天文学用語が登場する[6] など、文書中に現れる言葉遣いの新しさ、発見状況の不自然さ(和田家建物は1941年(昭和16年)建造の家屋であり、古文書が天井裏に隠れているはずはない)、古文書の筆跡が和田喜八郎のものと完全に一致する、編者の履歴に矛盾がある[7]、他人の論文を盗用した内容が含まれている、等の証拠により、偽書ではないかという指摘がなされた。これに対し、真書であると主張する者もおり、偽書派・真書派間で対立した。特に、偽書派の安本美典と真書派の古田武彦との間では、雑誌・テレビ・論文雑誌等で論争が行われた[6]。

1999年(平成11年)に和田喜八郎が死去した後、和田家は偽書派により綿密に調査がなされた。この結果、天井裏に古文書を隠すスペースなど確かに存在せず(後日公開された和田家内部写真[8] によれば、膨大な文書を収納できるようなスペースはなかった)、建物内には原本がどこからも発見されなかった上、逆に紙を古紙に偽装する薬剤として使われたと思われる液体(尿を長期間保管したもの)が発見され、偽書であることはほぼ疑いがないという結論になった。

青森県教育庁編『十三湊遺跡発掘調査報告書』[9]には、「なお、一時公的な報告書や論文などでも引用されることがあった『東日流外三郡誌』については、捏造された偽書であるという評価が既に定着している」と記載されるなど、現在では公的団体も偽書であることを公表している。

2007年(平成19年)、古田武彦は『東日流外三郡誌』の「寛政原本」を発見したと発表、2008年(平成20年)には電子出版された[10]。しかし、これについて作家の原田実は、その筆跡はことごとく従来の和田家文書と同じであると主張している[11]。「寛政原本」は活字化された『東日流外三郡誌』のいずれとも対応しておらず、その意味では(活字化されたものの)テキストに対する原本とはいえない。





日本国際教育学会   1999年11月7日
第10回大会報告 (於)京都・同志社大学

日本国の原風景
ー「東日流外三郡誌」に関する一考察ー

         西 村 俊 一       原文
          (東京学芸大学)


はじめに

 近年、青森県三内丸山の縄文遺跡発掘に象徴される様に、日本各地の古代遺跡の発掘調査が進み、それに伴って、日本古代史に関する旧来のイメージが大きく揺らぎ始めている。また、そのため、日本古代史の全般的見直しが歴史学の避け難い課題ともなっている。古田武彦の「九州王朝」(倭国)、「東北王朝」(蝦夷国)説は、その様な見直しの試みの一つであり、むしろその動きを先導してきたものと言うべきかも知れない。

 その中、いわゆる「九州王朝」説は、日本・中国・朝鮮の諸史籍の緻密な再考証、精力的なフィールド・ワーク、鋭く豊かな推論などから導き出された説であり、今や旧来の正統史学を沈黙に追いやる気配さえある。しかし、この説は、「大和朝廷」(近畿天皇家)が663年(天智2年)の白村江の戦いで大敗した「九州王朝」に対する従臣のクーデターによって成立したと見る点で、期せずして、今日の国際教育に対する大きな問題提起ともなっている。例えば、彼がその著書『「君が代」は九州王朝の讃歌』(新泉社、1990年刊)等において示している事実認識に対して、日本の教育関係者はどの様に対応するべきであろうか。

 他方、「東北王朝」説は、神武東征以降、その支配地域は徐々に侵奪縮小されてはいくものの、古来から「倭国」と共に「蝦夷国」が存在したとする説であり、中国史籍の『冊府元亀、外臣部、朝貢三』等と共に青森県五所川原市飯詰字福泉・和田喜八郎所蔵の『東日流外三郡誌』も傍証として用いている。しかし、まさにこの『東日流外三郡誌』を中心とする一群の「和田家資料」については、「九州王朝」をめぐる論争において惨敗を喫した感の濃い安本美典らが、現代人和田喜八郎の手になる「偽書」であるとの攻撃を加え、激しい「真書・偽書論争」が続けられてきた。古代史研究者は、その問題を純然たる事実認識の問題として扱うことも可能であるが、国際教育の研究者は、必ずや、その事実認識が帯びる今日的意味の確認を迫られることになる。したがって、これまで継続されてきた「真書・偽書論争」の帰趨にも無関心ではいられないのである。

 そこで、本報告では、北秋田の比内を生地とする安藤昌益の研究を進める中で偶々実見する機会を得たこの『東日流外三郡誌』を含む一群の「和田家資料」に関して、資料の体裁と構成、その描く古代・中世史像の概要を紹介し、「真書・偽書論争」のはらむ問題について検討を加え、その上で、今後の課題について言及を試みてみたい。何やら「火中の栗を拾う」の感も無くはないが、これまでの「真書・偽書論争」に関係したことのない第三者の判断もそれなりに意味があるのではなかろうか。


1、「和田家資料」の構成と『東日流外三郡誌』

 1)「和田家資料」発見の経緯

 「和田家資料」の所蔵者和田喜八郎及び同資料の編集刊行に携わってきた藤本光幸が記するところによれば、その発見の経緯は概ね以下の如くであった。 
昭和22年8月の深夜、和田家の天井板を突き破って挟箱が落下してきた。それには門外不出の古文書類が収蔵されており、それらは約200巻に及ぶ『東日流外三郡誌』のほか、『金光上人関係資料』、『天真名井家関係文書』等の合計368巻から成っていた。また、他の箱からは『東日流外三郡誌』編纂のための参考として収集されたと思われる世界史、進化論、宇宙天文学、宗教、博物学等に関する版木本や刊本数千冊が現れた。

 その後、1990年に最後の1箱を開いてみると、安倍頼良着用と伝わる鎧と共に、『丑寅日本記全』、『丑寅日本雑記全』、『丑寅日本史総解』、『奥州風土記』、『陸奥史風土記』、『丑寅風土記全』、『渡島古史抄』、『東日流古史抄』、『陸羽古史抄全』、『陸奥古史抄全』、『陸奥古事抄』、『東日流古事録』、『語部古事録』、『陸羽古史語部録全』、『日下史大要語部録』、『陸奥羽古代史諸証』、『日之本史探証』、『東北陸羽史談』、『陸奥史審抄』、『日下史大要絵巻』、『陸羽古史絵巻』、『日下北鑑全』等約1800冊(巻)の資料が現れた。以上が「和田家資料」発見の経緯の概略である。

 なお、これら以外に、和田家の屋根裏奥に隠し部屋が設けられていて、未開封の長櫃等が存在し、その中にいわゆる「寛政原本」(原副本)等が秘蔵されているともされてきたが、この件については後述する。

 2)『東日流外三郡誌』の編纂者

 これらの『東日流外三郡誌』を中心とする一群の「和田家資料」は、奥州三春藩主秋田倩季から安倍・安東・秋田家の族譜と事績の編纂を依頼されたのに応じて、1789年(寛政元年)から1822年(文政5年)までの間、秋田土崎湊の秋田孝季と津軽飯詰の庄屋和田長三郎吉次が調査記述したものであり、その後、その副本を権七、吉次、末吉の三代が書写によって虫食い等から守り、長作、元市へと引き継いで来たとされるものである。

その意味で、これらは、あくまでも江戸後期に編纂された二次資料でしかないが、空白の古代・中世に関わる古文書や語部による伝承等が収録されていたことから、一躍歴史学界の注目を浴びることとなった。

 なお、その『東日流外三郡誌』には、編者とされる秋田孝季と和田長三郎吉次が連署で「凡そ本書は史伝に年代の相違なる諸説多しとも、一編の歴史と照会して事実錯誤の発見あれど、私考にして訂正するは正確とぞ認め難く、訂正の労は後世なる識者に委ねたり」と記している。また、その書写保存に努めたとされる和田末吉は、子孫への戒めとして「本書は他言無用にて護り、末代に伝ふる秘と密を如何なる事態にても失ふべからず、死致るとも護るべし」と記している。

 3)「和田家資料」の体裁と構成

 当方は、北秋田比内を生地とする安藤昌益に関心を持ち、久しくその調査研究を心がけてきているが、その過程で、安藤昌益の生地と姓はもとよりのこと、その門弟の一人に長崎通詞がおり、北斗星を気の発生する源と見なし、世界を転(天)と央土(大地)と定(海)の三層で捉え、太古憧憬の念を表白し、人間の平等を唱え、その遺著を秘蔵に付しているなど、『東日流外三郡誌』との共通点の多いことが気になるに至っていた。そこで、「真書・偽書論争」の喧しい中ではあったが、1999年(平成11年)5月23日にあえて津軽山中の石塔山を訪ね、「和田家資料」を調査する機会を持ったのであった。

 その一群の「和田家資料」は、古びた黒漆塗り車付き長櫃等の大箱数箱に錠前を施し、直筆の綴本、巻物、聞き書き、写本、紙片等の形で、同時に収集した公刊本等と共に保存されており、その数は極めて膨大であった。いわゆる「偽書」論者たちは、秋田孝季・和田吉次の手になるとされる「寛政原本」の存在を否定するのはもとより、和田末吉の手になるとされる「明治写本」の存在をも否定して、『東日流外三郡誌』を中心とする全ての「和田家資料」を現代人和田喜八郎の手になる「偽書」であると断定してきたが、当方としては、率直に言って、それは一個人では到底不可能であるとの心証を得た。

仮にそれらが和田喜八郎の手になる「偽書」であるとすれば、同人の周辺に今日の大学の研究室よりも大きい偽作集団が相当長期にわたって存在し続けたと考えるしかないであろう。

 なお、和田喜八郎は、当方が安藤昌益に関心を持ち調査研究を心がけて来たことを告げると、即座に、「和田家資料」の中に安藤昌益からの10通ほどの書簡束があると異なことを語り出した。それによれば、実際の差出人名は「安藤昌益」ではなく、「安藤・・・」と普通に見かける名となっていたが、それは「昌益」のことである旨が朱筆で付記されていたという。また、それらの書簡には、ギヤマンや砂鉄についての照会が含まれていたとの記憶がある、とも述べた。

これには驚嘆したが、それが事実であれば、時期的にみて、編者秋田孝季・和田吉次のいずれかの父親宛であると思われた。安藤昌益については、その書簡断片が遺っており、一応筆跡鑑定も可能である。また、それ故、自ずから、『東日流外三郡誌』を中心とする一群の「和田家資料」の真偽判断の材料ともなり得る。和田喜八郎は、それを再び探し出して当方に提供すると言明したが、その約束は後述の事情から未だ履行されないままとなっている。

 さらに、その際、和田喜八郎は、「偽書」論者を原告とする訴訟の最高裁判決(平成9年10月14日)が出された機会に、信頼出来る公共の図書館等に「和田家資料」を寄贈して一般に公開したいので、適当な寄贈先を探して欲しい旨当方に依頼した。この件についても後述する。

4)『東日流外三郡誌』を含む「和田家資料」の公刊

 そもそも歴史学者の論争は激しい言葉の応酬といった様相を呈しがちではあるが、まさにその種の「真書・偽書論争」を惹起するに至ったのがこの『東日流外三郡誌』であった。これは、まず青森県北津軽郡車力村の『車力村史』(昭和48年12月25日刊)に一部無断引用され、また、市浦村の『市浦村史資料編』(全3巻、昭和50年~52年刊)に約200巻の中の約三分の一が了解の上で引用されている。その後、その全資料を収録した小館衷三・藤本光幸編『東日流外三郡誌』(全6巻、北方新社版、昭和58年~昭和60年刊)や藤本光幸編『和田家資料』(全2巻、北方新社、平成4年)等が公刊された。現在も入手可能なものとしては『東日流外三郡誌』(全6巻、北方新社版、及び、八幡書店版)、『東日流六郡誌絵巻』(全、津軽書房、昭和61年刊)、『和田家資料』(全2巻、北方新社、平成4年)等がある。

 ちなみに、「和田家資料」は、「明治写本」等すでに開封済みのものだけでも数千点に及ぶ膨大なものであり、その史料価値を判断し逐次公刊して行くには相当の年月を要することが予想される。なお、和田喜八郎は、1999年9月28日に突然病死したが、現時点で注目されるのは、(1)和田家の屋根裏の隠し部屋になおも未開封の長櫃等が存在していたか否か、(2)和田一族はそれをすでに開封したか否か、(3)その中にいわゆる「寛政原本」等が含まれていたか否かといった諸点である。当方が直接知る限りでは、これに関する和田喜八郎の言明には必ずしも一貫性は認められなかった。


2、『東日流外三郡誌』の描く古代・中世史像

1)アジア大陸から渡来した阿蘇辺族・津保化族の伝承

『東日流外三郡誌』は、東日流太古の民として、まずアジア大陸の粛慎族を祖とする阿蘇辺族に関する伝承を記している。しかし、この阿蘇辺族は、同じくアジア大陸の靺鞨族を祖とする津保化族の侵入と岩木山の大噴火のため、そのほとんどが滅び去った。その後、中国の晋では恵王帝の群公子が殺されるといった内紛が生じたが、その難民も大挙して津軽に漂着し、津保化族と融和定住するに至った。

 この様な日本北辺の広く外に開かれた原風景の記述は、実証的裏付けが乏しい以上、絵空事として退けることも容易であろう。しかし、太古の時代からこの様な民族移動がなされて来た蓋然性もあながち否定は出来ない。『日本書紀』の660年(斉明6年)の条には、阿倍比羅夫が陸奥の蝦夷を兵とする軍船200艘を率いて粛慎を伐った旨の記事が見られ、また、724年(神亀元年)に大野朝臣東人が建立したとされる「多賀城碑」には、「靺鞨国界去三千里」の字句も見られる。この様な事実は、東北地方と東アジア大陸の間に古くから緊密な交流が続いて来たことを示すものかも知れない。

 ここで留意すべきは、『東日流外三郡誌』においては、この伝承への言及が安東氏の中世における海上交易活動の活発な展開を描く伏線ともなっている点である。

 2)筑紫日向軍による耶馬台国侵攻と「東日流王国」の形成

 次に『東日流外三郡誌』の描くところでは、中国東周平王帝の頃、日本国内では九州筑紫の日向族がにわかに勢いを増し、ついに安日彦・長髄彦兄弟の君臨する耶馬台国の本拠近畿への東征を開始するに至った。耶馬台国軍は、各地で長期にわたって抗戦したが、出雲族の離反もあって、ついに本拠を攻略され津軽へ落ち延びる羽目となる。

そして、津軽に落ち延びた耶馬台国軍は、中国からの漂着難民と組んで津保化族を討伐し、遮光器土偶の姿の「荒吐神」を神とする五王制の王国を創った。この荒吐族の「東日流王国」(蝦夷国)は、次第に勢力を回復し、初代王安日彦の死後20代にして耶馬台国を奪回し、孝元天皇を君臨させるまでに至った。しかし、荒吐族長老の内部対立もあってその円滑な継承が果たせず、まずは若狭・大津・尾張の線以北を押領するに止まった。そして、その後、「倭朝」の遣わす田道間守、竹内宿祢、日本武尊、上毛野田道、安倍比羅夫、上毛野広人、坂上田村麿、文室綿麿等の硬軟両様の「征夷」活動によってその支配地域を侵奪され続けることになる。

 なお、以上の様な『東日流外三郡誌』の記述の中でなされている「記紀」の虚構性に対する糾弾は、主に神武東征前後までの前史部分に止まっている。つまり、「耶馬台国」、「倭朝」等の捉え方は基本的に「記紀」のそれに拠っている感があり、大きな違いは征夷軍の脆弱さをことさら強調している点のみである。ちなみに、この点に関して、古田武彦は、安日彦・長髄彦兄弟は九州から津軽に逃れたと考え、「倭国」は九州の筑紫に700頃年まで存続したとしている。その意味では、両者には共通する部分と相容れない部分があることになる。

 3)安倍・安東・秋田家の族譜と事績

 この『東日流外三郡誌』の記述は、当然のことながら、安倍・安東・秋田家の族譜描写と事績顕彰の段において、最も感情移入が激しい。安倍の姓は、元来同族である安倍比羅夫が融和策として荒吐五王に与えたとした上で、「安倍一族は奥州五国を掌中に民活し、国造り、諸々に領司せること大和の都を優りけく富ましめたりしも、日下将軍安倍頼時及び貞任の代にして、源氏に征討さるゝ世襲のおぞましき。

再び、東日流に一族の再挙せる安倍一族も久しからずして南部氏に亡びける。誠に無常やるかたなきかな。」(寛政五年、秋田孝季)などと、その無念の思いを吐露している。特に「前九年の役」の1062年(康平5年)における清原武則の裏切りや、津軽に落ち延びて以後の1322年(元享2年)における藤崎城主安東季久と十三湊福島城主安倍季長による「東日流騒動」等に対しては、それらが同族争いにほかならなかったが故に、その救いのなさに大きな苛立ちを隠していない。

その後、東日流は三戸城主南部守行の侵攻を受け、1442年(嘉吉2年)の芝崎城の合戦を最後に、秋田(桧山と土崎湊)及び渡島(北海道)に逃れることとなった。そして、江戸期まで存続した秋田家は、1602年(慶長7年)に常陸国宍戸五万石へ移封され、さらに1645年(正保2年)には磐城国三春五万五千石へと移封されて、『東日流外三郡誌』編纂の時点へと繋がって行くのである。

 他方、この些か怨念のこもる族譜の記述に対して、いわゆる「安東水軍」(武装商船団)については、その海外にまで及ぶ交易活動の輝かしい事績を、勇壮華麗に描写している。また、その記述も極めて詳細である。それによれば、「安東水軍」は、古来、第一軍を東日流の十三湊、第二軍を若狭の小浜、第三軍を門津の赤間関に配してきていた。

しかし、1185年(文治元年)、壇ノ浦の合戦で平家に加勢し村上水軍に敗れたため、十三湊以外の根拠地を失う結果となった。そこで、陸奥平泉の鎮守府将軍藤原秀衡の舎弟秀栄を十三湊福島城の養子に迎え入れて再起を図らんとしたが、藤原秀栄は安東姓を名乗らず、藤原十三左衛門を称して三代にわたり交易の富を独占するに至った。安東一族は、これに不満をつのらせ、それを失脚させる機会を窺っていたが、1229年(寛喜元年)、十三湊福島城領内の小泊における蝦夷管領京師役の柵の構築を機に起こった「萩野台の合戦」によって、ついに十三湊の奪回に成功した。

十三湊には外国船も頻繁に来航し、数多くの商家や神社仏閣が建ち並んで賑わいをみせた。「安東水軍」も「関東御免津軽船」(大乗院文書)として自在に活躍した。しかし、その総ては、1341年(興国2年)8月28日の「興国の大津波」(俗称「白髭水」)で完全に破壊され、十三湊も浅瀬となって使用不能となったため、その後再び往年の繁栄を回復することはなかったという。ただ、編者秋田孝季の経歴が事実であると仮定すれば、秋田においては、若干の交易活動が継続されていた可能性もある。

 なお、この様な編者の記述に兆している重商主義思想に関する限りは、安藤昌益の農本思想とは必ずしも相容れない。


 3、『東日流外三郡誌』の史料価値に関する判断

 1)『東日流外三郡誌』の史料価値

 この『東日流外三郡誌』の記述は、言うまでもなく、編者秋田孝季の事実認識と価値判断の双方を含んでいる。それ故、現時点で見れば、いずれ、その双方について、(1)肯定できるもの、(2)肯定も否定もできないもの、(3)否定されるべきもの、の3要素が看取されるのは当然である。その中、その事実認識の当否は、認識枠組みの当否とそれに応じる実証的根拠の有無如何によって判断されなければならない。また、その価値判断の当否は、判断基準の当否とそれによる判断の整合性如何によって判定されなければならない。

もちろん、その事実認識と価値判断の当否の判断に研究者自身の事実認識と価値判断が影響するのは避けられない。それ故に、研究者自身の事実認識と価値判断の適用は、明確な自覚の下になされる必要がある。しかし、その適用は、対象を処断するためではなく、むしろ両者を並置対立させて相互点検を行い、研究者自身の事実認識と価値判断を精緻化するのためになされるべきものである。

 さて、特に『東日流外三郡誌』における古代・中世史の記述には、誰の目にも上記(2)の要素が多いのが特徴である。それは、研究者自身が精確な事実認識と適正な価値判断を未だ有していないことの反映にほかならない。いわゆる「空白の古代・中世」なる表現は、まさにそのことを意味しているのである。

その場合は、当然、最終判断は保留するしかないが、上記(1)と(2)を研究者自身の事実認識と価値判断に加味することによって古代・中世史像を仮構してみることは許されることであり、また意味のあることでもある。何故なら、それは、次なる調査研究の方向を見定める有力な手がかりとなるからである。「和田家資料」復刻版の編集・刊行に努めてきた小館衷三や藤本光幸が、常に、その資料価値は慎重に判断されるべきものである旨を記しているのは、この意味において、まさに当を得た配慮であると思われる。

 ところが、『東日流外三郡誌』をめぐる「真書・偽書論争」は、基本的には、上記(1)、(2)、(3)の範囲確定に関わるものでも、また、仮構された古代・中世史像の成立可能性に関わるものでもない。それは、専ら、「偽書」論者が、「和田家資料」の直接考証を経ないままで、その全記述を(3)に属するものと断定し、それによる古代・中世史像の仮構の試みを一切否認することによって生じているのである。

 2)「偽書」論者と「偽書」キャンペーン

 最初に指摘した様に、「偽書」論者は、秋田孝季・和田吉次の手になるとされる「寛政原本」の存在はもとより、和田末吉の手になるとされる「明治写本」の存在をも否定して、『東日流外三郡誌』を中心とする全ての「和田家資料」を現代人和田喜八郎の手になる「偽書」であると断定してきた。「偽書」論者が「寛政原本」や「明治写本」の存在を想定した上で「偽書」論を提起するのであれば、「偽書」の定義を含め幾分か議論の余地は残る。

しかしながら、『東日流外三郡誌』を中心とする全ての「和田家資料」は現代人和田喜八郎の手になる「偽書」だとの断定から出発する以上、その記述内容に対する是々非々の対応は論理上許されない。その結果、「偽書」論者は、「もぐら叩き」よろしく、実証的根拠を有する記述さえも躍起になって全面否定せざるを得ない次第となる。しかし、それは土台無理なことであるから、いきおい罵倒や誹謗中傷を伴う「偽書」キャンペーンにまで走ることになっているのである。

 例えば、「偽書」論者が激しく攻撃してきたものに、「安東水軍」と「興国の大津波」の件がある。彼らは、それら全てを虚構として退けてきた。しかしながら、十三湊の利権をめぐる安倍・安東一族の内紛や奥州平泉の藤原氏の栄華は、十三湊を拠点とする自前の交易活動のそれなりの展開を想定しなければ説明のつかない面もあり、また、近年における十三湖周辺の遺跡調査の諸結果に鑑みても、かかる断定は性急に過ぎると言わざるを得ない。

ちなみに、『東日流外三郡誌』の編者は、徳川幕府の鎖国政策を「井の中の蛙」に類するものとして大きな危惧を示しているが、これは安倍・安東一族の久しい海外交易の経験の蓄積を反映しているかにも思われ、それ故に、『東日流外三郡誌』の編者が一種の「改革開放派」であった老中田沼意次と一時関係を持ったとする記述も、あながち空言とは断じ難い面がある。

 また、同じく「偽書」論者が激しく攻撃してきたものに、福沢諭吉の『学問のすすめ』(明治5年初版)の件がある。『東日流外三郡誌』の書写保存に努めたとされる和田末吉は、明治43年1月1日付の遺文で、福沢諭吉の『学問のすすめ』の名言「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」は、安倍・安東の祖訓の一句からの引用である旨記している。

確かに、『東日流外三郡誌』には、各所に、ほぼ同一の記述が認められる。したがって、この和田末吉の遺文の真偽如何は、逆に『東日流外三郡誌』の真偽を占う大きな手がかりともなり得る。その故もあってか、「偽書」論者は、これこそ「偽書」の「偽書」たる所以として攻撃を加えてきた。しかし、三春秋田家の子息が慶応義塾に学んだ事実に鑑みれば、和田末吉が秋田氏を介して福沢諭吉と接触していた可能性もあながち否定はできず、やはり性急な断定を差し控えるのが学問的態度というものであろう。

 この様に、『東日流外三郡誌』の描く歴史像は、予想を遙かに越えるものでありながらも、その蓋然性が全く無いとは断定できないものである以上、その史料価値を全面的に否定することは少なくとも差し控える必要がある。また、それ以外の膨大な「和田家資料」の中には貴重な史料が含まれている可能性も大きい。藤本光幸編『和田家資料』(全2巻、前掲)は、その可能性が決して少なくないことを暗示している。

したがって、何らの直接考証を経ることもなく、その全てを社会的害悪をもたらす忌まわしい「偽書」群として物理的廃棄を迫るのは、あまりに乱暴であると言わなければなければならない。むしろ、それらの直接考証を試みることが先決であり、その上で、それらが古代・中世史の再構成に役立つか否かを見極めることが必要なのである。

 なお、安藤昌益の遺稿『自然真営道』についても、当初、書誌学を専門とした第一高等中学校々長・狩野亨吉の手になる「偽書」ではないかとの憶測が流されたことがあった。


4、「真書・偽書論争」の構図とその問題点

 1)「真書」論とその問題点

 古田武彦は、「九州王朝」(倭国)説によって日本古代史に関わる旧来の事実認識の当否如何を広く問いかける一方で、『東日流外三郡誌』を含む一群の「和田家資料」の史料価値を真摯に追求してきた「真書」論者の代表である。彼の研究方法は、次の3点において一般の座学的研究方法とは大きく趣を異にしている。第1に、日本・中国・朝鮮の諸史籍の緻密な再考証に努めた結果として、日本古代史を国際関係の座標に位置づけてダイナミックに捉える新たな地平を拓くに至っている。

第2に、精力的なフィールド・ワークによって、座学的研究方法のみでは期待し得ない幾多の貴重な発見を行ってきている。ちなみに、柳田国男は、民俗学的調査において、当該社会の存続に関わる「禁忌」は公言されることがない故に、「古老」(informant)の確保が不可欠の要件であると考えた。古田武彦の研究方法は、この柳田民俗学の研究方法に学んでいる面もあるのではなかろうか。唯一惜しまれるのは、彼のフィールド・ワークの本格化が、高度成長政策に伴う地域開発に後れた点であろう。

第3に、彼は鋭く豊かな推論によって説得力のある解釈を次々に導き出してきているが、これは、その天賦の才能に負うだけではなく、諸史籍の緻密な再考証と精力的なフィールド・ワークを前提としてはじめて可能になっているものと考えられる。その研究成果を示すものとしては、例えば、『失われた九州王朝』(朝日新聞社、1993年刊)がある。旧来の正統史学は、東京大学法学部が学問的権威を急速に喪失しつつあるのと同じ意味において、この様ないわゆる「古田史学」の登場にはさぞかし困惑していることであろう。
 
さて、この古田武彦の「真書」論を示すものとしては、例えば、『新・古代学』(第1~3集、新泉社、1995年~1998年刊)があるが、その問題点は編者秋田孝季の存在が未証明で「寛政原本」が未公開であるという2点に尽きる。その中、秋田孝季の存在については、渡辺豊和もその著『北洋伝承黙示録』(新泉社、1997年刊)において証明を試みているが、なお今後の課題として残されている。また、「寛政原本」については、「明治写本」の考証を通じて古田武彦自らがその存在を確信しているものであり、そのことをあえて公言してきたのは、その責任感によるものと思われる。

しかしながら、私見によれば、「寛政原本」が存在し、それが公開されることは確かに望ましいことではあるが、その全てが良好な状態で保存されているという保証はなく、また、「明治写本」が存在する以上、「寛政原本」の存否に当該研究の成否を賭ける必要もあるまいと思われる。

 2)「偽書」論とその問題点

 『東日流外三郡誌』を含む一群の「和田家資料」を「偽書」として激しく攻撃してきたものとしては、例えば、安本美典編『東日流外三郡誌「偽書」の証明』(廣済堂、1994年刊)、松田弘洲著『東日流外三郡誌の謎』(あすなろ舎、1987年刊)、原田実著『幻想の津軽王国』(批評社、1995年刊)、千坂げんぼう編『だまされるな東北人』(本の森、1998年刊)などがある。この系列の著作は枚挙に暇がないほどであるが、それらが皮肉にも「和田家資料」の考証の精緻化をそれなりに促してきた面があることも一応否定は出来ない。

その中でも、原田実は、古田武彦の助手であった時期に『東日流外三郡誌』以外の相当数の「和田家資料」を実見している。したがって、その悔恨の弁が第三者の耳にいきおい真実味を帯びたものとして響くのも当然である。しかし、その回心が犯罪心理学者安本美典の編になる『季刊・邪馬台国』(51号、平成5年5月5日発行)掲載の筆跡鑑定等によるというのには些か幻滅を感じざるを得ない。

 和田喜八郎は決して凡庸な人間ではないが、当方の管見するところ、その文字と文章は真に拙劣極まりないものである。それは、和田喜八郎が高等小学校卒業のため、やむを得ないところでもある。そのことは、誰よりも原田実自身が最も良く知るところではないのだろうか。『東日流外三郡誌』を含む一群の「和田家資料」の文章もさほど優れたものとは言い難いが、両者に格段の差があるのは明白である。

しかも、和田喜八郎自身、他人に資料を譲渡する場合は、「和田家資料」保存の必要上、その模写版を作成したと公言してきているのである。その際、和田喜八郎が、編者秋田孝季の遺言を忖度するつもりで原文に幾らか手を加えたことはあり得るかも知れない。それにしても、それらの模写版は、模写屋等の手になるものであり、和田喜八郎の自筆になるものではないのである。

 千坂げんぼうの編著の様に、専ら世論操作を狙った悪質なキャンペーン文書は論外としても、この様な事実関係の直接確認を欠いた断定は学問を志す者のとるべき態度とは思われない。おしなべて、「偽書」論の問題点は、この様に事実関係の直接確認を欠き、『東日流外三郡誌』を含む一群の「和田家資料」を実見しないままで大胆にも「偽書」と断定し、個人への罵倒や誹謗中傷にまで走ってきたという点にある。

「真書」論と「偽書」論のいずれが真であるかはなお即断の限りではないが、「偽書」論者を原告とする裁判が実質的敗訴に終わったのは当然の成り行きであったと言うべきであろう。
 
 3)浄円寺佐藤堅瑞住職(元青森県仏教会々長)の証言

 当方は、1999年(平成11年)9月19日、他の研究者数名と共に浄円寺(西津軽郡柏村大字桑野木田)に佐藤堅瑞住職(元青森県仏教会々長)を訪ね、聞き取りを行った。彼は、和田喜八郎が資料を発見した当時の相談相手であった由であるが、大変穏和な人柄の宗教者であった。彼は、当時、「和田家資料」の中にそれまで知られていなかった『金光上人関係資料』が含まれていることを発見し、その譲渡を申し入れたが、和田喜八郎が応諾しないため、その模写版を作成してもらうこととした。これが、「和田家資料」の模写版作成の始まりであったとされる。

訪問当日、佐藤堅瑞は、和田喜八郎が新たに持参したという初見の「金光上人関係資料」3点を示しながら、「和田喜八郎に、この様なものは書けませんよ」と、その感懐を漏らした。その意味は、主に金光上人がしたためた他力信仰論の中身に関わるものと解されたが、その資料の中の1点はいわゆる模写版であった。しかし、彼は、そのことに頓着している様子は全くなかった。そして、「偽書」論者の代表とも言うべき安本美典について、「あの人は学者さんでしょう? それがどうしてあんな行動に走るのでしょうねえ。この世の中は、本当に怖いですねえ」という趣旨のことを、問わず語りに語った。

当方は、この聞き取りによって、自らの心証に一つの定かな裏付けを得た様に感じたことを、ここに明記しておきたい。


5、「和田家資料」をめぐる現在の動きと今後の課題

 1)「偽書」論者の狙い

 以上の様に見てくると、「偽書」論者の真の狙いは、『東日流外三郡誌』を含む一群の「和田家資料」の真偽如何の問題よりも、むしろ「九州王朝」研究を妨害し、その影響力を殺ぐことにあるのではないかという疑惑が頭をもたげてくる。これまでの論争の経過をつぶさに辿り直してみると、一連の「偽書」キャンペーンが、(1)特定の個人を標的とした組織的攻撃であること、(2)散発的ゲリラ戦法を駆使して攪乱と破壊を執拗に繰り返してきていること、等を知ることが出来る。そこには、皇室支持者の煽動を策したり、「真書」論者をカルト扱いするといった常軌を逸した行動さえ散見される。

最高裁まで争われた原告を野村孝彦、被告を和田喜八郎とする「偽書」裁判も、その審理経過から窺える様に、実は一種の仕組まれた「代理戦争」としての様相を帯びていた。和田喜八郎は、当方に対して、その裁判を大変迷惑なものに感じて来たと語ったが、その心境は十分理解できるところである。

この様な騒動の経緯は、第三者にとっては、まさに驚異以外の何ものでもない。軟弱な研究者なら、この様な謀略にさらされ続ければ、大抵精神的に消耗し研究活動を滞らせてしまうことであろう。その意味で、当方は、その標的とされた者に対する深い同情と強い義憤を禁じえない。それは、犯罪心理学の世論操作への不埒な悪用であり、学問のルールからの恐るべき逸脱であった。

 そもそも、学問研究は、研究者が相互にこの様な逸脱を厳しく自己規制することによって、辛うじてその生命を保って来たのであった。しかし、今日、この様な学問倫理が次第に崩れる傾向にあるのは否めない事実であり、それは何も歴史学の分野に限ったことではない。そして、情報戦が全てを決するといった乾いた発想が、あらゆる学問領域に浸透しつつある。それは、「情報化」時代の学問研究が抱えるに至った一種の現代病と言っても過言ではないであろう。

したがって、この「偽書」キャンペーンの示してきた放埒さは、決して他人事では片づけられない問題を孕んでいるのである。しかし、誰しも人間の理性と忍耐力を侮ってはならない。今や、その首謀者は、私怨を去って、速やかに学問的良心を取り戻し、「和田家資料」の直接考証に向かうべきである。

なお、安藤昌益研究においても、三宅正彦が安永壽延や寺尾五郎を相手に私怨を込めた醜い私闘を挑んだ時期があったが、それは今では過去の無粋な逸話と化しつつある。


 2)青森県内の文化機関・団体の姿勢

 しかしながら、この様な「偽書」キャンペーンは、その標的如何に関わりなく、一般社会にも計り知れない弊害を与えている。当方は、前述の様に、和田喜八郎から「和田家資料」の適当な寄贈先を探すことを依頼されのであった。その際、まず考えたのは、 (1)「和田家資料」の真偽如何は、あくまで、学界一般の直接考証によって判断されるべきである、(2)「和田家資料」の内容に鑑みれば、それはなるべく青森県内に保存されるのが望ましい、といったことであった。

 そこで、予備調査の実施とそれに基づく受け入れ可能性についての打診を開始し、まず五所川原市教育委員会、青森県史編纂委員会、弘前大学等の関係者に当たってみた。ところが、それを通して知らされたのは、これまで誰もが「和田家資料」を実見していないにもかかわらず、全く当方の打診に応じる者がないということであった。

実は、彼らは、「偽書」キャンペーンにひどく怯えていたのである。そのため、和田喜八郎が予備調査の受け入れを表明している絶好の機会を活かすことが出来ないのであった。この異常さには、さすがに驚きを禁じ得なかった。当方は、その時、悪霊に取り憑かれた暗黒の村を描いた外国映画があったことを思い出した。「偽書」キャンペーンの首謀者は、意外に、その謀略をゲーム感覚で行っているのかも知れないが、そのもたらしている弊害は、この様に予想以上に大きなものがあるのである。現在、当方は、最後の青森県立図書館からの回答に一縷の望み繋いでいる状態である。


 3)和田一族の状況

 しかしながら、この様な異常事態に陥った一半の原因は、和田喜八郎ないし和田一族のこれまでの行動にも求められるべきものではある。和田喜八郎ないし和田一族が無神経に模写版を作り続け、それを他人に売却して生活の糧を得てきた形跡は少なからずあり、それが周囲の不信感を増幅させる大きな原因ともなってきたからである。この不見識な行為に対しては、ほかならぬ「真書」論者も厳しい譴責の眼差しを向けている様子である。地域社会の衰退による生活難は、僻地津軽の町五所川原の和田家をも襲っており、余儀ない所業であったとはいえ、真に遺憾なことであった。今後、和田一族は、如何なる理由があっても、新書写者の署名を欠く模写版などを作成するべきではない。

 また、和田一族がこれまで頑なに「和田家資料」の公開を拒み続けたのは、先祖による「他見無用」の厳しい戒めによるのは確かであるが、実はその「和田家資料」の中には、安倍・安東の隠し財宝の在処を示す古地図も含まれているのである。それ故、仮に「寛政原本」等が存在するとしても、それを未点検のままで一挙公開することに躊躇を示すのは、神ならぬ人間の心理として理解できないことではない。

したがって、それを要求するとすれば、青森県の関係機関・団体は、何らかの適切な保障措置を講じる必要があるであろう。しかしながら、この間、その関係者は、あたかも旧津軽藩士の如き意識で、和田一族を「百姓」として蔑み、それに対する「村八分」や「いじめ」まで放置してきたのであった。これは、第三者を呆れさせるものであるが、いずれその道義的責任は免れ得ないと思われる。


 4)今後の課題

 何はともあれ、すでにその存在が確認されている「和田家資料」については、和田喜八郎が生前その意向を表明したことでもあるから、適切な保存方策を講じて学界一般の直接考証に委ねる必要がある。図らずも、この点に関する限りは、これまで「偽書」論の側に立って論陣を張ってきた地元東奥日報社会部の斉藤光政記者とも意見の一致をみたところであった。

また、「寛政原本」等が残存し、それが公開される可能性も全く無くはない。その場合に望まれるのも、決して特定の個人がそれを抱え込むことなく、広く「偽書」論者を含む学界一般の直接考証に委ねる方策を講じることである。さらにまた、その際は、私怨を去るべきは当然のことながら、特定イデオロギーによるその性急な歪曲も極力自制される必要がある。ちなみに、安藤昌益の思想も、久しくマルクス主義的解釈による歪曲にさらされ続け、その払拭には幾多の無駄な曲折を経なければならなかった。

 以上、本報告は、あくまで「真書・偽書論争」への介入を目的とするものではないが、それを避けては「日本国の原風景」を探り得る状況にないため、あえてそれに関わる私見も含めつつ『東日流外三郡誌』の描く古代・中世史像の紹介を試みた次第である。

おわりに

 日本国際教育学会は、本年、創立10周年を迎えた。その創立当時、当方は、編集代表として『国際教育事典』(アルク、1991年刊)を刊行した。その自らの執筆項目の中には、「広開土王碑」(好太王碑)の項目も含まれている。それを現在再読してみると、幸いにして大きな誤りはないものの如くであるが、その執筆当時は、『広開土王陵碑の研究』(吉川弘文館、1972年刊)の著者李進煕の反日民族主義の主張が暗く心を覆っていたことが思い起こされる。

現在は、最早、その様なイデオロギー的主張が学問的に評価される時代ではないが、政治運動などの中ではなお生命を保っているのかも知れない。この様に、ある古代史認識が現実の国際教育に思わぬ影響を与えるということは、しばしば起こることである。その意味において、国際教育学は、特に現在揺らぎを示している古代史研究には十分目配りしていく必要があると考える。





東日流外三郡誌とは

和田家文書研究序説
古賀達也       原文


はじめに

 青森県五所川原市飯詰の和田家に推定一万点を越えるとされる先祖より受け継いだ、あるいは山中より発見された文書・遺物がある。文書は数千冊、遺物は一万点にも及ぶという(当主和田喜八郎氏談)。まさに「北の正倉院」とも称すべき様相である。中でも文書類は「和田家文書」と称され、その内容は津軽(東日流)の古代より近代に至る伝承などが記された一大伝承史料群である。

その文書群の一つ「東日流外三郡誌」は昭和五〇年に『市浦村史資料編・東日流外三郡誌』として刊行されたこともあり、全国的に脚光をあびることとなった。刊行後、その史料状況や史料性格への誤解などから偽作視されることもあったようで、今日に至ってもそうした声は続いている。

 私は昨年五月より四度にわたり、古田武彦氏らとともに現地調査に赴き、和田家文書に接することができた。その結果、和田家文書について多くの知見を得た。よって、和田家文書研究発展のため、ここに知り得たことを記し、また、同文書への言われなき中傷への反証を試みたいと思う。現在もなお調査研究中の対象であるので、不十分さや思い違いもあるかも知れないが、中間報告として本稿を発表することにした。本稿が和田家文書への正当な評価、学問研究に貢献できれば幸いである。


和田家文書の大分類

 和田家が収蔵している文書の総数は、その量が膨大なため、未だ正確な数や内容は不明である。当主和田喜八郎氏の話などを総合すると、概ね次のような分類が可能である。

(A).江戸期(天明・寛政年間頃から幕未)の文書類
(B).明治・大正(一部は昭和初期)期の写本(原本は江戸期寛政頃から幕末までに成立)
(C).江戸期の「参考書」類(江戸期原本作成時の史料と思われる)
(D).明治.大正期の文書類、あるいはそれの写本

 これら四種類に大別すると、 (A).群は現時点では最も数が少ないようである。それでも、一枚ものの「庄屋文書」「神社文書」などもあり、正確な数は不明である。ただし、後で述べるように今後この (A).群が大量に発見される可能性を有している。

  (B).群は、寛政期に成立した「東日流外三郡誌」などの明治・大正写本が中心であり、和田喜八郎氏によれば推定二千冊(巻)に及ぶと見られる。この内、これまで私たちや刊行担当者たちの目にふれたものだけでも四百冊(巻)はあるようである。現在もなお和田家より古田武彦氏へ (B).群文書が続々と調査研究のため送られてきており、今後その数は更に増えるであろう。

 一例として、 (B).群中代表的な「東日流外三郡誌」を、昭和六三年から平成二年にかけて刊行された八幡書店版によって見ると、総収録数百九十三巻(冊)、編数で二千二百五十九編という膨大な史料群である。「東日流外三郡誌」そのものは約三百六十巻あったと記されていることから、すでに百七十巻分ほどに当たる明治写本が失われている、あるいは未発見ということになろう。

 これまで論議の対象となってきたのはそれら (B).群文書であるが、江戸期成立の文書を明治・大正期、一部は昭和初期(昭和七年の年次を持つ「北斗抄廿七」の存在を確認した)にかけて書写された、言わば「再写文書」であることから、その史料性格上、書写時に書写者による改編や追記がなされている部分がある。

その結果、江戸期成立の文書の写本に明治以後の知見や呼称が記されることになり、このことが偽作論の「根拠」の一つとされているが、再写本に見られるこれらの現象を偽作の根拠にするなどとは、史料性格を無視した暴論、あるいは文献史学の基本を知らぬ行為と言われても致し方ないのではあるまいか。

 さらに、 (B).群文書には明治・大正期書写者(和田末吉、和田長作。現当主喜八郎氏の曾祖父・祖父)自身による (D).群文書が挿入されているケースさえもある。明確に挿入が判るケースもあるが、混然として判りにくいケースもまま見受けられるので、書写本による史料批判が必要であり、刊本では判りにくいと思われる。

 このように、 (B).群文書は和田家文書中で量も膨大で、内容も多岐にわたっているため、古田武彦氏や私により写真撮影・コピー・ビデオ収録を進めてはいるが、いずれはコンピュータによるデータベース化が必要であろうと考えている。

 しかし、それ以上に我々が注目し、期待しているのが、これら明治・大正写本の元となる江戸期寛政原本の発見である。明治・大正時代に書写された原本の存在なくして、これら膨大な (B).群文書の存在は説明できない。

したがって、現在未発見の大量の (A).群文書、すなわち寛政原本の発見が期待されるのである。現在発見されている (A).群文書が虫食いなどで、かなり傷んでいることから、未発見の寛政原本の損傷も大きいことが予想できる。和田喜八郎氏も寛政原本公開の考えを持っておられるので、一日も早い発見・公開が望まれるところである。

 次に (C).群文書だが、喜八郎氏の話では、和田家文書中この (C).群文書が最も多く、推定約三千冊はあるとのこと。これら (C).群文書は江戸期寛政原本作成にあたっての参考書とされたようで、江戸期の和漢の史書やオランダ語の文献もあるとのことである。私もそのうち数点(『旧唐書」他)を実見したが、今後の調査により貴重な文書の発見が期待されよう。

なお、八幡書店の森克明氏によれば、和田家蔵書調査時に『日本政記」『近古史談」『大学章句』『校刻日本外史」『玉かつま』等を実見したとのことである(『東日流六郡誌大要別報』所収「『東日流六郡誌大要』覚書」、八幡書店、一九九〇年)。

 こうした文書の他に、金石文や版木・竹経・錦絵などもあるらしいが、まだ実見していないので本稿では触れない。

 最後の (D).群文書は明治・大正期の教科書や、書簡類である。ただ、私が実見したものは (B).群文書中に貼り付けられていたり、綴じ込まれているもので、独立したものは未見である。これらがどの程度存在するのかは不明だが、明治期の書簡(和田末吉と福沢諭吉との書簡などがあるそうである)など興味深いものがある。今後の調査が期待されるところだ。

明治・大正写本の史料状況

 明治・大正写本の史料状況は大別すると、巻子本と冊子本、あるいは一枚ものからなる。巻子本は冊子本を巻子に再装丁したものが多いようである。この巻子本への装丁作業は明治・大正期に限らず戦後も行われているようである。和田喜八郎氏の話では、紙の痛みが大きいものなどを巻子本に装丁したとのことであった。

冊子本の場合は、使用済みの大福帳の紙背を再利用したものが少なくない。これは、膨大な書写により、和田家が窮乏し、五所川原市の佐々木家より使用済みの大福帳をもらい受けて書写を続けたためである。この大福帳自身も明治・大正期の地方経済史研究にとって、第一級の史料であり貴重なものである。これら大福帳が明治・大正期のものであることは、裏面(大福帳としては表面)に明治や大正の年次が繰り返し記されていることで判明する。

このように貴重な大福帳を大量に入手することは、現在では困難だ。このこと一つを見ても、和田家文書を戦後の偽作とすることは無理である。

 通常この大福帳は縦半分に折りたたんだ紙を綴じているため縦長の形をしている。和田家文書では大福帳のままの形で使用したものもあるが、多くは大福帳の紙を一枚一枚外して広げ、何も書かれていない裏面を表にして、二枚ずつ袋綴じのように張り合わせ、更にそれを冊子として製本するという体裁になっている(横綴じ本となる)。量が量だけに、これは大変な労力と時間を要する作業でもある。和田喜八郎氏の話では、祖母(祖父長作の妻)が傷んだ文書を再製本していたのを記憶しているとのことであった。

 また、これら大福帳を再利用した横綴じ冊子本とは別に、通常の和綴じ本の体裁のものもある。「東日流外三郡誌」にはこのタイプが多いようである。私が実見した「東日流外三郡誌」は、大福帳のままとこの和綴じ本タイプのものであった。ちなみに八幡書店版刊行時の調査では、収録した百九十三巻中、冊子本が百七十六冊(横綴じ本一冊、大福帳七冊を含む)、巻子本二十六巻であったと報告されている(中村和祐氏「『東日流外三郡誌」の完結によせて」『東日流外三郡誌別報6』所収、八幡書店、一九九〇年)。

 このように、和田家文書の状況を見れば、喜八郎氏による偽作などという説がいかに成立困難なものであるかは、それこそ一目瞭然である。むしろ、先祖の遺した膨大かつ貴重な文書を代々にわたり書写し、紙代に窮すれば、もらい受けた大福帳の紙背に書写を続けるという、和田家の執念とも言うべき偉業に頭が下がる思いである。

 なお、念のため付け加えると、展覧会展示用や望まれて作成された、和田家文書のレプリカ類が存在する。これらレプリカ類は戦後作成されたもので、筆跡などを和田家文書に似せている。レプリカであるから似ているのは当然だが、そのためこれらレプリカの紙質を鑑定し、戦後作成された偽作とする偽作論が出現する原因となったようだ。私の見た範囲では、レプリカは厚く大きめの紙に書かれ、明治・大正写本とは大きさも紙質も全く異なっており、これを本物と思う方がどうかしている、といった様相を呈している。

 筆跡も本物に似せているため、くせ字や異体字などは共通しているが、筆の押えや返しが流暢で滑らかであり、和田家文書とは筆跡が異なる。この点もまた、偽作論者には両者の区別がつかないようであり、誤鑑定と言わざるを得ない。こうした誤鑑定に基づく所説は学問的基礎を取り違えたものであり、研究者として厳に戒めねばならないことを今後の研究のために付言しておきたい。


和田家文書公刊の歴史

 偽作論者は和田家文書が昭和三〇年以後段階的に作られ現在に至っているとしているようだが、その根拠は各文書が公刊された年次に基づいた憶測に過ぎないと思われる。和田喜八郎氏の証言では、昭和二二年夏に天井裏からの落下を機に世に出始めたとされるが、それを裏付ける事実がある。

 当時、地元の郷土史家の第一人者ともいえる人物に福士(ふくし)貞蔵氏がおられた。氏は津軽地方の市町村史を数多く手掛けられており、同時に津軽地方の古文書の調査や書写、伝承の聞き取りなどをなされている。そして幸いにもそれら調査の自筆原稿が五所川原市立図書館に存在する(福士文庫)。その中の「郷土史料蒐集録第拾壱號」に次の和田家文書群が書写されているのだ。

○役小角(えんのおずぬ)関連の文物、金石文等(漢文、『飯詰村史』に開米智鎧(かいまい ちがい)氏が紹介、後出)
○高楯城・藤原藤房卿関連文書(漢文)
○飯詰町諸翁聞取帳 文政五年今(こん)長太編(高楯城関連も含む、『飯詰村史』に掲載)

 これらはいずれも和田家所蔵の文書、あるいは山中の洞窟より発見されたもので、既に公刊されたものも少なくない。同「蒐集録」には別に和田米八(喜八郎氏の親戚)蔵書の書写もされており、その書写年次が「昭和廿三年正月廿八日筆寫」「昭和廿四年十月廿四日寫」と記されていることから、先の和田家文書類の書写も同時期と見て大過あるまい。以下、和田家文書が戦後(主に昭和五〇年頃まで)どのように世に紹介されていったかを述べよう。

(1).福士貞蔵編『飯詰村史』昭和二六年

(収録和田家文書:文政五年今長太編飯詰町諸翁聞取帳」「庄屋作左衛門覚書」)
 福士氏は、「蒐集録」収録の「文政五年今長太編諸翁聞取帳」や、これも和田家文書と思われる「庄屋作左衛門覚書」を『飯詰村史』の第十三章「口碑及傳説」の「追記」等で紹介し、同章「追記」冒頭や「編輯を終へて」に次の様に記し、集録した和田家文書に強い関心と高い評価を与えていたことをうかがわせている。

「以下は傳説ではなく史實とも思われますが再検討を要する部分もあるので、念を執って暫く本章へ編入する事にした。」
「第十三章の追加(主に和田家文書記事・古賀)は、本史に一段の重きを加ふる好史料であるが、原文を見られなかったので、口碑傳説の部に入れて置くの餘儀なきに至ったのは、實に遺憾である。」

 そして、資料収集の協力者の一人として、和田喜八郎氏の名前を上げ、謝意を記している。ここで「原文を見られなかった」とあるが、この「原文」とは明治写本ではなく江戸期の原本を指すと思われる。それは次の理由による。まず、当然のことだが和田家文書を見なければ、福士氏は書写できない。また明治写本さえも実見しないで、研究誌に紹介したり、村史に掲載したりできないであろう。

 このことは、同じく「福士文庫」にある福士貞蔵著『郷土史料異聞珍談百話」の自筆原稿中に「諸翁聞取帳」の藤原藤房卿の記事の引用がなされており、その後註として次のように記されていることからも証明される。

「(註)右は原本ではなく写本に據ったものであるが、誤字又は脱字があるらしい。」

 この福士氏による註は「文政五年今長太編諸翁聞取帳」の原本ではなく、明治の和田末吉による写本によったことを示しているのである。

 さらに、福士家より「津軽諸翁聞取帳」(明治写本)が発見されているようである(『東日流六郡語部録諸翁聞取帳』和田喜八郎編、一九八八年、八幡書店にその経過が紹介されている)。和田喜八郎氏も福士氏に貸し出した旨、述べられている。したがって、福士氏は明治写本を書写したが、江戸期の原本(原文)を見られなかったことを遺憾とされたのであろう。

 ところで、『飯詰村史』は昭和二六年の発行であるが、編集は昭和二四年に完了していることが、編者による「自序」や「編輯を終へて」に記された日付から判明する。このように、和田家文書は戦後間もない昭和二一二年頃には福士氏により書写され、紹介されているのである。偽作論者は同『飯詰村史』の内容を知っていながら、その中に福士氏が特筆して紹介した「和田家文書」の存在に、気づかぬふりをしているとしか思えない。すなわち、昭和二三年は喜八郎氏が述べるように、天井裏から文書が落下した翌年であり、和田氏の証言と福士氏による書写・公刊と時期的にピッタリと符合するため、こうした事実をひた隠しにしているのだ。

 さらに、昭和二三年といえば喜八郎氏はまだ二一~二歳であり、これら多くの文書、しかも難解な漢字漢文や用語を多用した文書・金石文などを偽造偽作したとは、さすがに偽作論者たちも言えなかったのではあるまいか。

 私は故福士貞蔵氏の自筆原稿や氏の手になる膨大な著作類に触れ、津軽の優れた郷土史家福士貞蔵氏の業績を知った。氏の自筆原稿等は、和田喜八郎氏偽作説を否定する貴重な「証言」と言わねばならない。

(2).福士貞蔵「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」

『陸奥史談』所収、昭和二六年(収録 和田家文書:「諸翁聞取帳」)
 福士氏はそれら和田家文書を書写するに留まらず、研究誌にも引用・紹介されているのだ。例えば「諸翁聞取帳」を『陸奥史談』第拾八輯(昭和二六年四月発行)において「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」という論文で紹介している。同論文冒頭には次のように記されており、飯詰村で発見された史料に基づいていることがわかる。

「勤皇の士雲の如く起りて鎌倉幕府を倒し、目出たくも王政復古となり、昨日の悲憤は今日の悦びと化したが、賞罰當を失ひ、秕政多きを嘆き、藤房卿はしばしば*諌奏したが、毫も容れられなかった。茲に於て藤房卿は奉公の甲斐なきを悲しみ、官位を捨て北山の岩倉に入りて僧となった筈であるが、今日に至るも其の終る所が知られなかった。然るに今回端なくも飯詰本村に於て意外の史料を発見した。

 記録は『諸翁聞取帳』といって、飯詰を中心に隣村の史實を或る文献より寫したり、又は口碑傳説など聞取った事柄を書留めた物で、筆者と同じく餘り學力のある方でないらしく、文体は成って居らんし、それに用語も無頓着で意味の判らぬ個所もあるが、全く耳新しい史料であるから、同好の士に紹介する事にした。」

しばしば*([尸/婁]々)は、尸編に婁。JIS第三水準ユニコード5C62

 この後、「高楯城系譜」が漢文風のまま掲載されている。ここで重要なことは、この史料を当時(昭和二六年から見て最近)飯詰村で発見されたもの、としていることだ。この「高楯城系譜」は先の『飯詰村史』に掲載されているものと同文であり、同じ史料に基づいていることがわかる。すなわち「和田家文書」の一つ「諸翁聞取帳」なのである。この「諸翁聞取帳」のことは「東日流外三郡誌」にも次の様に記されている。

「諸翁聞取帳
 是の書は飯詰味噌沢に主家せる庄屋作佐エ門及飯積派立今長太、和田長三郎、北屋名兵衛、菊池庄左エ門等が書遺せる諸翁聞取り帳なり。是れは、史実伝説混合せる処ありとも、亦後考にして再調しべし。
 明治二十一年十一月三日
          飯詰村福泉之住 和田長三郎」
『東日流外三郡誌」第五巻、八幡書店、七〇九頁)

 ここに記された人物の内、『飯詰村史』「第十四章在方役人」の「庄屋」の項で、天明年間(一七八一~一七八八)北屋名兵エ、文政年間(一八一八~一八三〇)長三郎の存在が記されている。偽作論者は和田家は明治二二年以前に飯詰に住んでいなかったとか、庄屋ではなかったとするが、『飯詰村史』でははっきりと「庄屋長三郎」の存在を記しており、またこの「長三郎」が「和田長三郎」であることは、和田家の菩提寺長円寺(飯詰)の「過去帳」からも証明できるが、このことは別稿にて論じる(和田家ではしばしば長三郎を襲名している)。

 このように、昭和二二年に天井よりの落下を機に世に紹介された「和田家文書」の出現事情と、福士氏の「史料紹介」の内容(時期と場所)が見事に符合する事実こそ、「和田家文書」喜八郎氏偽作説を否定する重要な論点なのである。なお、「諸翁聞取帳」という文書は複数あるようで、固有書名というよりも「諸翁からの聞き取り」という収録スタイルに基づく一般書名として、和田家文書では使用されているようである。

(3).開米智鎧「藩政前史梗概」『飯詰村史』所収、昭和二六年

(引用 和田家文書・史料:骨蔵器銘文、銅板銘文、木皮文書、「諸翁聞書」)
 和田喜八郎氏宅近隣に大泉寺というお寺がある。そこの前住職、故開米智鎧氏は金光上人の研究者として和田家文書を紹介した人物であるが、氏もまた『飯詰村史』中の研究論文「藩政前史梗概」に和田家文書等を引用・紹介している。同論文はグラビア写真と三三頁からなる力作である。内容は和田元市・喜八郎父子が山中の洞窟から発見した「役小角関連」の金石文や木皮文書などに基づいた役小角伝説の研究である。

 この論文中注目すべき点は、開米智鎧氏はこれら金石文(舎利壼や仏像・銘版など)が秘蔵されていた洞窟に自らも入っている事実である。同論文中にその時の様子を次のように詳しく記している。

「古墳下の洞窟入口は徑約三尺、ゆるい傾斜をなして、一二間進めば高サ六七尺、奥行は未確かめていない。入口に石壁を利用した仏像様のものがあり、其の胎内塑像の摩訶如来を安置して居る。總丈二尺二寸、後光は徑五寸、一見大摩詞如来像と異らぬ。(中略)此の外洞窟内には十数個の仏像を安置してあるが、今は之が解説は省略する。
 此の洞窟に就いて岡田氏所蔵の記録に
  東方一里洞穴三十三観音有
   正徳年間炭焼午之助説

といふ、若し此れが此の古墳の洞窟を指したものとすれば、多数の佛像の存在を三十三観音と推考したものであらふ。」

 このように洞窟内外の遺物の紹介がえんえんと続くのである。また正徳年問(一七一一 ~ 一七一五)の炭焼午之助の説として三十三観音が洞窟にあったという記録も紹介し、和田父子が発見した洞窟のことではないかとも論じている。偽作論者の中にはこれらの洞窟の存在を認めず、和田家が収蔵している文物を喜八郎氏が偽造したか、古美術商からでも買ってきたかのごとく述べる者もいるが、開米氏の証言はそうした憶測を否定し、和田家文書に記されているという洞窟地図の存在とその内容がリアルであることを裏付けていると言えよう。ちなみに和田氏による洞窟の調査については、『東日流六郡誌絵巻全』山上笙介編の二六三頁に写真入りで紹介されている。

 このように、和田家文書に記された記事がリアルであることが、故開米氏の「証言」からも明らかであり、それはとりもなおさず和田家文書が偽作では有り得ないという結論へと導くのである。余談だが、当時、飯詰村では和田父子が発見した遺物が評判となったようで、和田父子が山に入ると、村人がぞろぞろと後をつけたという。この逸話も当時村人たちが「和田家文書」や「遺物発見」を疑っていなかったことを表しているのではあるまいか。

偽作論者はこの時発見された「遺物」をことさら過小評価しようとするが、開米氏の論文に掲載されているグラビア写真を見ても、発見された遺物が貴重なものであることは明白である。少なくとも、戦後の混乱期に炭焼きを業としている貧しい農家であった和田家で偽造したり、購入したりできるものでないことは疑いない。

 開米氏のこの論文中に注目すべき点がもう一つある。同論文は役小角が主テーマだが、論文中に「諸翁聞書」という文書が次のように引用されている。

「降って文明十二年南朝天真名井宮が郎黨とも十七名高楯城主五代の藤原藤光に頼らせられ「天下太平祈願」を中山に修せられた事は諸翁聞書に出て居るが、今回発掘の摩詞如来像は當時法要の本尊ではあるまいか、といふのは、佛像と一処に掘り出された護摩器の中に鐵の金剛厥が大小四本ある、(中略)慶長元年兵法役松山定之助、老中役中野萬右衛門、奉行役今清右衛門、代官役木村正衛門等の遺臣が大光院に藤原家累代を供養した記事は諸翁聞書に傳へている。」

 この「諸翁聞書」と先の「諸翁聞取帳」とが同じ物か別物なのかは不明だが、「東日流外三郡誌」などに頻出する「天真名井(あまない)宮伝承」や「藤原藤房卿の末裔伝承」がここに現れていることは興味深い。すなわち、開米氏はかなりの量の和田家文書をこの昭和二六年時点で既に読んでいるという事実が浮かび上がるのである。和田家の近隣にある大泉寺住職の開米氏ならば、和田家が所蔵していた膨大な文書の存在を知っていたとしても何等不思議ではないからだ。現に開米氏は役小角研究に次いで金光上人の研究を和田家文書に基づいて開始し、昭和三九年には『金光上人』を刊行することになる。

(4).佐藤堅瑞『殉教の聖者金光上人の研究』昭和三五年

(引用 和田家文書:金光上人関連文書」)
 浄土宗の祖法然の直弟子で東北地方へ浄土宗を布教し、津軽で没した著名な僧に金光上人がいる。しかし金光上人の詳しい事績は謎とされてきた。開米智鎧氏とともにその金光上人研究をすすめられてきたのが、西津軽郡柏村浄円寺住職佐藤堅瑞氏である。
 佐藤氏は開米智鎧氏とは仏教大学の先輩後輩の関係にあり、昭和一二年頃から全国を行脚し金光上人研究をされていたが、和田家文書の「発見」を開米氏より伝えられ、昭和三一年より共に調査研究を行われたのである(開米氏の大泉寺と佐藤氏の浄円寺は八キロほどの距離で、氏は自動車やスクーターでしばしば大泉寺を訪ねられていた)。

佐藤氏は「浄土教報」にも和田家文書(金光上人関連)の調査報告を発表されているが、昭和三五年一月に『殉教の聖者金光上人の研究」を刊行された。

 佐藤氏は今も御健在であり、この間の事情などを御教示いただいたのだが、氏は昭和三一年から三五年にかけて多くの和田家文書を実見されており、先に紹介した「諸翁聞取帳」や「東日流外三郡誌」、それに洞窟より発見された役の小角関連の銅板銘や木皮文書、骨蔵器なども見ておられるとのこと。また、「調査が必要」とされながらも、当時和田喜八郎氏が「浄土宗の僧籍に入り忍海と改名し、最低の権律師を頂いたようだ」とも証言されている。

偽作論者は和田氏が僧籍にあったことを疑問視しているが、佐藤氏の証言によれば、やはり事実のようである。当時のことを知る関係者が少なくなった現在、こうした佐藤氏の証言は貴重である。

(5).開米智鎧『金光上人」昭和三九年、金光上人刊行委員会発行(非売品)

(引用和田家文書:金光上人関連文書」)
 先に紹介した佐藤堅瑞氏の『金光上人の研究』に次いで昭和三九年に刊行されたのが、開米智鎧氏による『金光上人』である。同書は本文二八八頁からなり、総本山知恩院門跡岸信宏氏、大本山増上寺法主椎尾弁匡氏による序文、文書などのグラビア写真二二枚などが収録されている。巻末に収録されている藤本光幸氏の「刊行にいたるまで」によれば、昭和二四年に和田喜八郎氏により山中から発見された修験道資料や金光上人関連文書により力を得た開米氏が、以来十有余年、資料の整理研究を行い昭和三八年に脱稿されたものと紹介されている。

 同書には多数の和田家文書が収録紹介されているが、同書付録の「金光上人編纂資料」には約二百三十編の和田家文書名が見える。このように『金光上人』編纂にあたって、開米氏は膨大な和田家文書を昭和二四年以降参照しているのである。紹介されている和田家文書には一枚ものの簡単な「書簡」もあれば、浄土宗や修験宗の教義に関するものなどがあり、浄土宗史や仏教教義に詳しくなければ書けない内容といえる。

一例をあげれば、金光上人が著したとされる「末法念仏独明抄」第八巻得道品には「妙法蓮華経」方便品の一部が転用されていたりする。浄土三部経からの引用が多い金光上人関連文書に法華経が引用されていること自体興味深いことだが、こうしたことを見ても、仏典に詳しくなければ書けない内容であることがわかるのである。少なくとも法華経方便品の文意を理解していなければ、引用は不可能である。おそらく偽作論者たちはこうした史料状況さえも気付いていないようである。

 これら金光上人関連文書は地元伝承や古文書を採録したものと思われ、全てが史実というわけではないこと、当然であろう。いずれにしても、浄土宗の僧侶である開米氏が研究に値すると判断した内容であり、当時、二〇代前半の和田喜八郎氏が偽作できるようなレベルでは、質においても量においてもないのである。偽作論者は故意にこうした内容にまで触れようとしていないのではあるまいか。同時に、開米氏もこうした和田家文書を無批判に信用したわけではないことが、「序説」に次のように記されていることからうかがえる。

「昭和二十四年「役行者と其宗教」のテーマで、新発見の古文書整理中、偶然燭光を仰ぎ得ました。
 行者の宗教、即修験宗の一分派なる、修験念仏宗と、浄土念仏宗との交渉中、描き出された金光の二字、初めは半信半疑で蒐集中、首尾一貫するものがありますので、遂に真剣に没頭するに至りました。

 此の資料は、末徒が見聞に任せて、記録しましたもので、筆舌ともに縁のない野僧が、十年の歳月を閲して、拾ひ集めました断片を「金光上人」と題して、二三の先賢に諮りましたが、何れも黙殺の二字に終りました。(中略)
 特に其の宗義宗旨に至っては、法華一乗の妙典と、浄土三部経の二大思潮を統摂して、而も祖匠法然に帰一するところ、全く独創の見があります。加之宗史未見の項目も見えます。

 文体不整、唯鋏と糊で、綴り合せた襤褸一片、訳文もあれば原文もあります。原文には、幾分難解と思はれる点も往々ありますが、原意を失害せんを恐れて、其の侭を掲載しました。要は新資料の提供にあります。」

 このように戦後比較的早く世に紹介された和田家文書の一つとして「金光上人関連文書」は、内容も量も一個人が短期間に偽作できるというものではないことを証明するのである。しかも、同時期に「役小角資料」「諸翁聞取帳」「天真名井家関連資料」も公刊・紹介されており、ますます和田喜八郎氏偽作説は成立困難なのである。

(6).豊島勝蔵編『市浦村史資料編・東日流外三郡誌』全三巻

(別に「年表」一巻)昭和五〇年
 和田家文書を一躍有名にしたのが、昭和五〇年より刊行された『市浦村史資料編・東日流外三郡誌』である。和田家文書を代表する「東日流外三郡誌」約三百七十巻の内、約百巻がジャンル別に収録されている。発刊時から全国的に反響を呼んだようで、同時に江戸時代成立のものとしては内容に不審があるとして、偽作ではないかとの声も生じたが、考古学的発掘調査事実などと文書の内容の符合から、失われた津軽地方の歴史を補う貴重な文献資料として高い評価も得ている。例えば同村史編者豊島勝蔵氏は『東日流外三郡誌・中巻』(昭和五一年発行)の編集後記で次のように記している。

「この『東日流外三郡誌』によって、処々方々をかけめぐり、特に城祉についてはほとんど一致をみているし、今まで不詳であった寺趾及び館祉なども、あらたに発見することが出来たりしているので、すばらしい資料だと考えています。」

 さらに『市浦村史・第一巻」(昭和五九年発行)でも、豊島氏は『東日流外三郡誌』発行以後続いた考古学的発掘調査の結果と「東日流外三郡誌」との一致や関連を詳しく紹介されている(山王坊遺跡など)。

 和田家文書中代表格ともいうべき「東日流外三郡誌」は、こうして世に本格的に紹介されたのであるが、『市浦村史資料編』では全体の約三分の一程度の紹介に留まった。後の昭和五九年に藤本光幸氏らによって現存写本約二百冊(巻)が北方新社版として刊行されることになるのだが、偽作論者たちはここでも和田喜八郎氏による偽作がこの間に続けられて「東日流外三郡誌」の巻数が増えたかのごとく主張しているのだ。こうした主張が全くの虚偽情報であることが『市浦村史資料編・東日流外三郡誌・下巻』(昭和五二年発行)に記されている豊島氏による「下巻の編集を終って」の次の文面からも明らかである。

「東日流外三郡誌にめぐり会ってからもう七年目のリンゴの花盛りを迎えた。その問、資料の借用・書写・資料の整理編纂・裏づけ旅行・研究家との応待等々心に余裕のない七年間であった。まったく外三郡誌の内容そのものについて熟考する余裕もないほどの忙しさであったことは、知る人ぞ知っていることであろう。私の手にした外三郡誌は巻数からいって、三分の一ほどでしかなかったけれども、津軽の古代史・中世史の資料の乏しさに比べれば、分量と内容との面からいって一驚に値するものであった。(中略)

 この度、市浦村から下巻を発刊しましたが、「東日流外三郡誌」による資料は、これで打切らして戴き、残りの同資料は藤本光幸先輩の編集で発刊する運びとなりましたので、御期待を願います。下巻の構成は、系図篇・落人篇・戦乱篇としました。その後和田氏から資料がまいりましたが予算の関係で割愛さしていただきました。(後略)」

 このように、豊島氏は自らが手にした「東日流外三郡誌」は巻数からみて三分の一程度であったこと、残りは藤本光幸氏により刊行されることになっていること、和田氏からはその後も資料が届いたが予算の関係で割愛したことを記しているのである。ここまではっきりと豊島氏が述べているのを知っていながら、偽作論者たちは悪質な虚偽情報を垂れ流し続けているのである。もし知らずに虚偽情報を流しているとすれば、当該文献を読みもせずに偽作論を述べていることになり、およそ学問的態度ではない。

 同様の問題に、「虫食い」の件がある。偽作論者たちは「東日流外三郡誌」に虫食いによる欠字がないことを偽作の根拠として度々主張しているが、これなども悪質な虚偽情報である。市浦村史版をはじめ、北方新社版、八幡書店版のすべてに虫食いなどによる欠字が随所に見られる。

何よりも、市浦村史版『東日流外三郡誌』中巻の編集後記に「文中□印は、虫クイおよび二重書、破損のため不明なところです」と編者豊島勝蔵氏が虫食いなどによる欠字の存在を明記しているほどである。また、偽作論者たちが「東日流外三郡誌」を読んでいれば、随所に見られる欠字記号すべてを見落とすことは、まず考えられない。

したがって、偽作論者たちは「東日流外三郡誌」を読んでいないか、虫食いの存在を知っていながら嘘をついているかのいずれかではあるまいか。このように、偽作論者たちは偽作キャンペーンのために虚偽情報を繰り返し吹聴しているのである。以下は参考のため、書名のみを紹介する。
 
(7).藤本光幸・小舘衷三編『東日流外三郡誌」全七巻、北方新社、昭和五八~六一年。『東日流外三郡誌』約二百冊、「天内家関連文書」を収録。
(8).山上笙介編『東日流六郡誌絵巻 全』津軽書房、昭和六一年。
(9).山上笙介編『總輯東日流六郡誌』津軽書房、昭和六二年。
(10).東日流中山史跡保存会編『東日流外三郡誌』全六巻、八幡書店、昭和六三年~平成二年。『東日流外三郡誌』百九十三巻(冊子本百六十七冊、巻子本二十六巻)を収録。
(11).同『東日流六郡語部録 ーー諸翁聞取帳』八幡書店、平成元年。
(12).同『東日流六郡誌大要』八幡書店、平成二年。
(13).藤本光幸編『和田家資料1』北方新社、平成四年。『奥州風土記』『陸奥史風土記』『丑寅日本記全』『丑寅日本史総解』『丑寅日本雑記全』を収録。
(14).藤本光幸編『和田家資料2』北方新社、平成六年。『丑寅日本記』『丑寅日本紀』『日之本史探証』を収録。


むすび

 偽作論者が主張する昭和三〇年以降の段階的偽作説は、本稿で紹介したような歴史事実を無視した虚偽情報という他ない。『季刊邪馬台国」などに名を連ねている偽作論者の内、公刊された和田家文書だけでもきちんと読んでいるのは、いったい何人いるのだろうか。先行偽作論者による和田家文書の部分引用(しかも誤読誤解もある)ぐらいしか読んでいないのではと疑いたくなるようなレベルの「議論」も少なくないのである。

 念のため述べるならば、私は偽作説の存在そのものを批判しているのではない。問題としているのは、昨今の偽作論者の言動が学問の方法とその領域を逸脱し、とりわけ和田喜八郎氏や関係者への誹諺中傷、甚だしきに至っては「犯罪者」扱いするその偽作キャンペーンに危険な社会現象を感じ取るからである。

 その一方で、私は偽作説の中でも次のような、節度を保ち、学問の方法と領域を逸脱すまいとする論者がおられることも知っている。

「しかし最近、安藤氏研究の権威と目される高名な研究者と話したおり、その研究者が以前、「東日流外三郡誌」の原本を見ていたことを知った。そのお話によれば、原書には付箋が非常に多数貼ってあり、付箋の記述はいずれも荒唐無稽ないし明らかに後世の書き込みであったが、もともとの部分については検討を要することを感じたというのである。(中略)もちろん調査の結果、原東日流外三郡誌など存在せず、無からの創作であることが明らかになるかもしれないし、あるいはまた、あったはずの原東日流外三郡誌を、加筆の過程で目茶苦茶にしてしまい、今となっては確認できなくなっているのかもしれない。

いずれにしろ、現在までの論争では、状況証拠でしか批判が行なわれていないことが気になるのである。厳格な実証主義史学の立場からすれば、状況証拠はいくら積み上げても所詮状況証拠でしかない。一つでもいいから直接の証拠を必要とする。「東日流外三郡誌」の早期の直接の調査が待たれる所以である。」

(小口雅史弘前大学助教授「『東日流外三郡誌』をどうあつかうべきか近時の論争に寄せて」『季刊邪馬台国』五二号所収、一九九三年)

 和田家文書に疑念をいだいておられる小口氏とは、その見解こそ異なるが、氏のいわれる厳格な実証主義的史学の立場と方法には賛成である。地元青森県の研究者である小口氏が和田家文書に対して直接原書にあたって研究されることを期待したいのである。
 最後に本序説を終えるにあたって、次の一文を紹介しておきたい。

「わたしはかって次のような学問上の金言を聞いたことがある。曰く『学問には「実証」より論証を要する。(村岡典嗣)』と。

 その意味するところは、思うに次のようである。“歴史学の方法にとって肝要なものは、当該文献の史料性格と歴史的位相を明らかにする、大局の論証である。これに反し、当該文献に対する個々の「考証」をとり集め、これを「実証」などと称するのは非である。”と。」
(古田武彦「魏・西晋朝短里の方法 ーー中国古典と日本古代史」『多元的古代の成立[上]邪馬壹国の方法』所収、駿々堂出版、昭和五八年。初出は東北大学文学部「文芸研究」百~百一号、昭和五七年)

 当文面は『三国志』の史料批判に対して古田武彦氏が述べられたものだが、現在の和田家文書真偽論争に対しても全くそのままあてはまる指摘である。古田氏の学問が『三国志』に対しても、和田家文書に対しても全く同一の方法論にたっておられることを明白に示す文章である。にもかかわらず、残念ながら氏の学問とその方法を真に理解していた者が必ずしも多くはなかったことが本真偽論争の過程で明かとなった。

 古田氏の言うところの大局の論証、すなわち次に示す「偽作説成立」のための根幹的論点に対して、偽作論者は今日に至るまで回答できなかったし、また将来においても不可能であろう。

一、偽作に要する大量の明治・大正時代の紙(大福帳など)をいつどこから入手したのか。

二、和田家文書に採録された古今東西の膨大な伝承群に関する知見をいつどのように入手したのか。

三、膨大な量の文書を毛筆で書き、かつ製本する作業を、近隣の村人から知られずに戦後何十年も続けることが、どのようにしたら可能なのか。

四、和田家が収蔵している膨大な遺物・古美術品をどこから入手したのか。

五、戦後間もなく、地元の研究者により和田家文書が研究・発表されている事実をどのように説明するのか。

 これら偽作説成立のために必要不可欠な論点に応えられないまま、そして、再写文書・書き嗣(つ)ぎ文書という、和田家文書の史料性格への正確な認識を欠いたまま続けられている偽作論は、やはり学問的に成立困難なのである。と同時に、これら偽作説成立の根幹にかかわる論点がなに一つクリアーできない以上、和田家文書は真作と見なさざるを得ない、これが学問の方法論と論理が指し示す到達点なのである。「論理の導く所へ行こうではないか。たとえそれがいずこに至ろうとも。(ソクラテスの意、岡田甫(はじめ)氏による)」

       (こが・たつや 古田史学の会事務局長)

Arahabaki



『倭の百余国』

弥生文化の普及によって人々の生活は豊かになり、急激に人口が増えると各地にクニが出来て互いにテリトリーを主張するようになりました。BC500以降の日本列島には下記のようなクニと種族の棲み分けが出来ていたようです。

奥州(東北地方)に 津保化(つぼけ)族 (ツングース・アイヌ人)
武州(関東地方)に 宇津味(うづみ)族 (オロッコ人)
越州(北陸地方)に 長三毛(ながみけ)族 (苗族=ミャオ族)
濃州(東海地方)に 津称奈(つとな)族  (ツングース・アイヌ人)
大和(近畿地方)に 津止三毛(つとみけ)族 (ツングースと苗族の混血人種)
紀州(紀伊半島)に 奈津三毛(なつみけ)族 (苗族)
四国(四国地方)に 大賀味(おおがみ)族  (港川人)
淡路(淡路島)  に 賀止利(かとり)族    (苗族)
因州(山陰地方)に 宇津奴(うづみ)族    (苗族)
芸州(山陰地方)に 亜羅三毛(あらみけ)族 (苗族)
九州(九州地方)に 猿田族(レビ族=ヘブライ人)と
             日向(ひゅうが)族(港川人)

これが『魏志』倭人伝などにいう『倭の百余国』の所以であるかと思います。九州の猿田族は、のちに糸島半島(前原市)に旧伊勢国を建てたガド族系の猿田彦とは別の種族です。

『古事記』にはスサノオノ命が出雲の簸川(ひのかわ)の辺でヤマタノオロチを退治し国神(くにつかみ)の娘、櫛名田姫を救って妻となし、大国主命を生んだ神話が記されています。この神話の共通のルーツは、ヒッタイトにあります。

ソロモン王の母親は、父ダビデが臣下から奪ったヒッタイトの女性、ソロモンはユダヤ人とヒッタイトのハーフでしたがソロモン王は、妻シバの女王との間に王子メネリケがいて、この王子が連綿として20世紀まで続いたエチオピア王朝の祖王になりました。

ソロモン王とシバの女王はヒッタイトの製鉄技術者たちをタルシシ船に乗せてインド大陸やマレー半島に派遣しました。技術者たちはガンジス中流やメコン上流のバンチェンに入植して製鉄所をつくり、鉄製品を現地の黄金、象牙、香料、真珠などと交換しました。



続 津軽史料の考察

 「東日流外三郡史」の研究


これは、津軽(青森県)は大和朝廷とはまったく異民族の土地なりとして、別個の歴史をもち、京方と戦いつつ、別個の王国だったとする内容である。即ち、大和民族は単一民族となす説に反対する文献なのです。そしてまだ儒学が全盛の江戸期に書かれたものである。それに寛政五年からは、津軽から福島までは未曽有の大飢饉で、津軽領だけでも二十万人もの餓死者を出している。こんな時代に、手分けして各地を回り聞き書きをしに、餓鬼地獄の中を矢立をもって歩いて記したという、現実にそぐわぬ可笑しな部分もある。こうした点は心して読む必要がある。

しかし、記紀を金科玉条とする史観より、見るべきものは多く、一笑に付すものでは決してない内容である。以下にその考察をしてみたい。

 「東日流外三郡誌」というのは、青森県北津軽郡市浦村の村史編纂会が昭和四十六年に設置された際に、五所川原市飯詰の和田喜八郎家所蔵の、江尸時代から門外不出、他見一切無用と厳禁されていた三百六十巻の古文書の中より、判読できる百巻を上中下の三巻にし、同村の委員会より「市浦村史資料編」として刊行された、今まで正史とよばれるおかみの歴史とは全然異質の文献なのであります。

 和田家49代の当主によれば、寛政二年に和田長三郎が、鎌倉侍所別当の和田義盛の一族だったのに、北条氏に追われて秋田に隠れすみ、世直しのため南朝に与し津軽へきたが滅ぼされ、神職を勤めていたが、長三郎はそれさえも追われ、妻が秋田上綺の秋田孝季の妹だったので、そこへ行き二人で祖先を追跡調査して、己れらの血脈を伝えるために生涯かけて採録筆写したものといいます。

 「反藩の罪科に厳重に問われるゆえ、と油桐紙に包み、極秘に天井裏に隠して伝わってきたもの」と、二人が書き綴って一部ずつを子孫に伝えたのが、秋田孝季の子孫の方の分は散逸してしまったが、和田家では樟木の箱に入れていたので、二百六十巻は判読困難だったが、その中の百巻分だけは昭和三十二年春に初めて蓋をあけた時は助かって、どうにか読め得たと前書にのべています。

 さて、この津軽地方の地形的変遷や古代津軽人の風習言語、つまり「亀ヶ岡式上器」や「森田村石神(おせどう様)の縄文式円筒方式土器」それに「市浦村中島出土の土師器」に関連する古記録は「耶馬台国五畿七道の(倭の)五王の長髄彦、安日彦が、九州日向に出現したジンム族の鉄製の剣や矛によって追われて、遠く津軽へ亡命してきて、その伴ってきた一族によって開拓されたる為」といった記述が基礎となっているものですから、韓国歴史界にとって、この「東日流外三都誌」が、さも日本での唯一の信頼すべき古代史料のごとく、大々的に取りあげられたことがあった。

 かつて長州の御雇い教師リースが、日本には歴史学はないと明治十八年の博士号設定の時に文学博士の範囲にしか入れさせなかった程ですから、日本では、宮下文書や竹内文書なみにしかみなさず、
問題にはされていません。ただ考古学や人類学の分野では研究しかけていますが、いわゆる各大学で講義する歴史屋さん達は、まったくまだ目も通していない程の不勉強さでかないません。

 しかし韓国だけでなく朝鮮人民共和国でもおおいに検討されだしていて、双方共に、「魏の国に貢進していた耶馬台国なる存在は、親魏政権というよりは今の中国の出先機関が統率していた中国の支配体制。それを追払って新しい大和朝廷をたてた日向ジンム族は九州へ渡った朝鮮半島人だ」として、物騒なデマですが、南北が統一するのは失地回復しかないと秘かに言われています。

中国の以前の華首相の線引きで、朝鮮半島からまさかとは思いますが、南北統一は対外戦争しかないと攻めてこられては、吾々はまた縄文日本人の昔に逆戻りさせられてしまい困ります。それゆえ専門家がまったく手がつけられぬ「東日流外三郡誌」の真の解明を、どうあっても吾々日本人が負わざるをえません。

 歴史とは過去の具象の真実のあり方を把握すべく努力することで、それを勝手に都合よく解釈する事ではないからです。さて、そうした誤りをおかさせるのには、その第一に述べられている処の、〈東日流流転史〉に「山麓に住居するは阿曾部族、海浜に住むを津保化族とよぶは、その昔、天変地異ありて山が火を噴き、浦が隆起して陸となりし為なり」と、まず説明しているのであります。

 「太古の古い称号は、スーサンポー、津軽をチンパルとよぶは、いずれも唐の漢語。大昔のことだが大漢国より忍び難き国乱ありて、やむなく漂着してきたれる彼の国の難民共を祖先とす」「その頃、九州の日向に起こりし一族が東に遠征。それまで耶馬台国五畿七道を洽領せし安田彦、長髄彦を討伐。

よって耶馬台一族は北方に遁がれて津軽まで落ちのび、再挙を企てたがならず、原住民の津保化や阿曾部の民と混血して、荒吐一族となり北上川平泉まで進攻し総処となし、東西南北にそれぞれ王をおきて統治し、ウーワンと中国語でよび、日の神を、ヤンとかヤーとよんで崇拝した」となっていますから、耶馬台国が「瞳」と当時はよばれていた中国大陸の出先機関の統治地だったというようにも解釈されてしまいます。もちろん魏の国へ朝貢していたからこそ、〈魏志倭人伝〉にも記載されているのです。

しかし、その頃の日本列島には耶馬台国群に対抗していた古代海人族らの、八幡国群が黒潮のくる各海浜には、処々にあって対抗し彼らは懸命に戦っていたのです。 それに今も中国地方とよばれる岡山には、華夏王朝とよぶ吉備の地域が前から既にあったのです。 高梁川の地名が今もある一帯で、大和朝廷になってからは、大陸から新しくきたのと区別するためにと、トウはトウでも藤でなく「桃」とよばれる人々のいた土地なのである。

〈群書類従〉の「大唐和尚伝」に、桃原とか桃生との文字ででてくる日本へきてからの唐人にお伴をする通訳の連中の植民地だった安全な土地があるのに、何故に彼らが中国系だったら東北の津軽まで逃亡するのか辻つまが全然あいません。〈葦原談義〉には、つがる平原は、葦の大草原にて、豊葦原の国なりぬと史書にもいう、とあります。
 
そして、ひとつかみの稲穂をもって九州の築紫にきた後の日向族が、遊放民族の猿田彦に米の味を覚えさせ、酒や女をあてがって、今いう呑ませる、抱かせる、握らせるで彼ら部族を己が奴隷となし、自分らは高天原より高千穂に降臨せし神々なりと称し、やがて本州の耶馬台国を征討させました由。

 さて日向族の彼らが持ちこんできて、強制的に水稲を種もみとして植えさせ、収穫を、「上毛」と称して貢進させていたのが、韓国産のホコネとよぶ水稲の種もみと高天原より高千穂へ、鉄の矛や剣をもってきたジンムは、韓国より渡来の日向族で、己らが先祖だと韓国史学界では言うのであります。


 津軽契丹 
東日流三郡暦の考察

天刑の乱こと、天慶の乱で坂東八ケ国の拝火宗徒を津軽へ追った時、藤原氏は唐を滅ぼし、取って代わった契丹(宋国)よりの今来漢人を賤民になし東北へ追ったというのが、津軽大陸人説の真相である。
 
〈東日流開聞〉の章では、太古は中国大陸や韓国とも日本列島は地続きであったとして、当初は、「アソベ一族」の民が海浜で塩をやき漁をして暮していた処へ、中国系の津保化一族が大挙して押しよせてきて、石斧や石剣の縄文人を攻め、やがて彼らが逃げこんだ行来盛火山が噴火して死滅。その後へ耶馬台国の一族や中国より渡来民が入ってきて、混血しあって、荒吐一族となり、異民族の倭族とはあけくれ交戦をくり返しつつ津軽を確保した。これが津軽の非大和民族説です。

 よって日向族がたてた大和朝廷では、斉明帝の頃に、奥州の荒吐五王を難波の都に招いて官位を与えて懐柔しようとしたが、津軽は拒んだので、阿倍比羅夫が百八十隻の船団で討伐にきたが、有間浜で応戦して八十余隻を火箭をもって焼き払い、やむなく阿倍比羅夫は、船の酒や食糧を提供して命乞いしたといいますし、斉明六年に又も阿倍船団二百隻の来攻があったが、十三湊で沈められてしまったのが半分以上。陸から前に攻めこんできた上野毛田道将軍のごときは、部下もろとも六百八十余名が一人残らず中山にて包囲全滅されてしまったと、その津軽の武勇さを誇っています。

 今でこそ大和民族は単一民族と学校歴史では義務教育しますが、これでは大和朝廷系の日向族と、東北の、耶馬台国残党の中国系の荒吐族とは、ともに天地を共に頂かぬ異民族どうしとなります。 つまり韓国と中国の勢力争いを、縄文日本人を兵卒にして、双方で必死にくり返して、「安東将軍」とか「征東将軍」、明治になるまで「征夷大将軍」の官命がこれ故にあったのです。明治政府も、「界外」とみて降参した賊軍会津を移したりしましたが「津軽盲暦」というヤマトの漢字は一切使用しない絵だけのカレンダーを江尸時代から用いて対抗していた。契丹系も追われ津軽に多く住んでいて鈴木姓を名のる。現在でも青森県には「つがる暦」という漢字を全く使わない絵暦ががある。
 
日本人は高千穂より九州を平定し大和へ入ってきた日向族ではなく津軽の荒吐族こそ耶馬台国直系の貴種なりとする他、世界史の中に、その津軽年代表をおき証明す。

 〈日本書紀〉や〈古事記〉みたいに神がかりの内容ではなくして、〈最古代重日流外三郡暦〉では、「津軽の歴史は日本皇紀より約二千二百九十三年より古く、中国の陳の時代で、当時西南や太平洋州では、シャールキン一世がサーゴンと国号を定めて、カルジヤを建国し栄えていた時代」とし、「アフリカでは既にメネスが黄金帝国をつくっていたし、エジプトでメンフィスが奴隷とした白色人種を使役したピラミッドを作りだしていたものである」と、世界史の中で、津軽建国を説明しています。

「ビッキムガモ」と称していた津軽の原住民たちが栄えだした頃は、中国は黄帝の世で暦法を定め、算術、医書、養蚕をもう始めだし、アフリカではエジプト第四王朝のスフィンクス造成期となす。

 中国が「夏」となった頃、インドにアリアン族が大挙して進攻。当時の日本列島は百二十八の種族の民が漂着し、それぞれ一族で分領しあって相互闘争をくり返し、津軽では石器より土器時代。

 アラビヤにプクソスが現われて統一しだした時、ヨーロッパ北部には白っ子人種のスカンジナビア人が集りだし、これは後の白人種となる。津軽ではコウゾの樹皮や鹿皮で衣服をつくるようになったとします。 スリイピングバックの元祖にあたるような、獣の毛皮をはぎ二枚をつなぎ合せた袋に入って、寒気の厳しき津軽では冬の寝具を作りだすようになった頃、中国では「殷」が建国されています。
 アラブではイスラエル族がカナンの地に入りだした頃。ヨーロッパのギリシヤが航海術にすぐれ、スカンジナビア人らも暖流寒流の潮流で大洋航行することを次第に覚え活躍しだしたゆえ、スパルタが起こったり、トロイが木馬を城内に入れた為に隠れていた兵達に占領されたりして滅亡する。

 さて中国が『周』となって武王が即位した頃、とことわってから、〈東日流外三郡暦〉では、日本国日向に高天原天神地神の愚想信仰起こりて、衆是に従う者多し、その導師は女人なりという。津軽にては大船を造りて渡島や東島崎にゆき交易」とでています。こんなことが堂々と行われたなら、江戸時代だけでなくても皇国史観の昭和初期から、戦後までのおかみでも、不敬罪もので投獄処刑であります。さらに、「インドにシャカが生まれて仏法が弘まりだした頃になっても、日本はまだ統一されておらず」とあります。

 東北=津保化族。関東‥卜宇津味族。中部=津袮奈族。奈良H‥津止三毛野族。紀伊り奈津三毛野族。南海道=大賀味族。淡路=賀止利族。因州=宇津奴族。安芸=亜羅三毛族。北九州=日向一族。南九州=猿田一族と分かれて「神武帝日向高千穂宮より東征なされしは、即位前七年冬十月五日なれど、山口周防の軍勢に一年の余にわたって封じこめられ、進撃するあたわず、ようやく向わんとするも安芸に拒まれ七年の歳月を失う」と、吉備で八年も釘づけにされ、「高島でも三年も悪戦苦闘をしいられて難波の浪速に到り、淀川をのぼって河内の草香村の自肩の津に辿りつく」とあります。

 河内の草香というのは後の桓武帝の御生母高野新笠の居られた土地で、ここへ彼らが持ちこんできた韓神さまが平野四神で〈神祇式〉によれば、やがて、皇大神となると記録されてもおります。 だから妙に辻つまが合わされていて、河内で武具を整えて竜田へ進軍したがならず、生駒〈夷駒山〉越えに大和へ入ろうとした先発隊の五瀬命は討死。和泉へ向えば稲飯命もそこであえなく戦死。

 といったように日向族が、大和朝廷をつくる迄の戦争。「津軽のみは殺掠を好まず別個に暮し豊かに暮せり。これ日本神代の実相にて、日本史の誤てるを心に感銘をなす可。寛政庚申二月 秋田孝季」 となっています。つまり大和朝廷成立以前にあって、津軽は別個の、異民族として栄えていたというのです。明治以降ドイツからきた長州の御雇い教師リースが、日本人は島国ゆえ単一民族だと今の学校歴史を設定してしまいましたが、この書はこれに反対して、明確に複合民族であると主張しているのです。


津軽異種説

縄文時代から武力征服されて弥生時代に変った時の日本の人種は、百余にも別れていたというし、あくまでも単一民族ではなくて違うと主張するのは津軽のみです。 秋田孝季があげている各種族の名称を分類しますと、ウクスツヌの発音が上につく津とか宇のつく中国大陸系がある。イキシチニのつくのは朝鮮系。アカサタナのつくのは古代海人族。オコソの発音がやはり上につくのは沿海州から入ってきた、蒙古系と分類されている。これは正しい見方である。日本列島は、ベーリング寒流と黒潮暖流が流れてきて抜けてゆく日本列島だけに、あらゆる種族が入りまじっています。

また、〈日本古事記〉に言う苦戦の経過も、記紀のに合わされています。 しかし、これをその儘うのみにしてしまいますと、中国大陸の魏の国に朝貢して臣従していた日本の耶馬台国政権を、韓国よりの日向族が随分とも苦労してご先祖様を解放してくれた事になります。 なにしろ秋田孝季らが、これを書いた江戸時代の寛政時代というのは、まだ熊沢蕃山でさえ、「中国人は貴種」とあがめ、荻生徂徠でさえ物徂徠と号をつけ、「もし孔子や孟子の国から攻めてきたら、それでも迎え討てるか?」等と議論しあい、儒学者たちが、しきりと迷い悩んでいた時代なのであります。

 今でも舶来崇拝とか西洋かぶれといった言葉がありますが、これは、縄文日本人として征服され弥生時代から奴隷とされてきた劣等感の裏返しみたいに、日本人は「ええ恰好し」と言われる国民性です。 ですから秋田孝季が現代人でしたら、山本七平みたいに(ユダヤ人でも白人だから)と書きもしたでしょうが、まだ南蛮人は紅毛の蛮人みたいに思われ、最高の貴人は中国人なりとされていた頃ゆえ、津軽人の先祖は、その貴種なりと悦ばしげに恰好づけしたにすぎないような気がします。

 そして今日の学校歴史も、満鉄歴史と申してもよいように、日露戦争後に満州へ侵出するため布設した南満州鉄道によって鴨緑江経由でシルクロードから、すべての文化は流入されてきたごとくに、海洋潮流学を全く考えぬ、陸路日本史ですので、中国人を柤とする津軽の荒吐族だけは、日向族つまり当時の三韓からの侵略者たちか弥生時代に変え、奴隷にして徴兵した縄文日本原住民をそれぞれ三方から棄て殺しにして戦わせあっていたのに対し、津軽は超然としていたなどと書いたのでありましょう。

 しかし日本海も対島海峡もなく、中国大陸や韓国と日本列島が陸続きであったという仮説のもとに、この〈東日流外三郡誌〉は成立していますが、〈魏志倭人伝〉にも、日本列島は洋上にあった事は明記されています。つまり藤原基経によって廃立され山中へ逃れたもうた陽成帝やその側近が、木地師となってからも、自分らの先祖は高貴な出自であると誇って、それぞれが変ですが、「藤原姓」を、追われた立場では敵姓なのに、逆に用いて今に到っているのと同工異曲であります。

 なのに今では安倍一族でさえ京の懐柔政策で、藤原姓をうけて名のると、さもそのせいみたいに、「藤原三代の栄華」と、東北には当時黄金だけはあり余っていて、消費都市の京へと「金売吉次」といったセールスマンを派遣しても捌けず、やむなく建立した金色堂などをもって裏付けとするのと、まったく本当の歴史離れした日本歴史の変てこな論理に、さも中国大陸系の耶馬台人と、朝鮮系日向族の代理戦争みたいに書かれたものが、今となっては韓国史学界を歓ばせているのです。

 シルクロード熱で誤らされていては、真実の解明などは及びつこう筈はありえません。かえって、こうした他から隙を突かれるようなものさえも、今ここに蘇ってきてしまうのです。まあ世界史とはまったく分離して独得すぎる日本史を勝手に作ってしまったのは歴史屋さんの責任でしょう。

今や習近平独裁の共産中国は、ひたひたとその世界侵略を日本にも向けている。 今さら日本国民を、右寄りに教育しても遅いが、日本人は百余種の流入混種の複合民族なのだと、そこを正直に教え、ライジングサンの旭日旗の下に、日本人たるもの日本列島を命がけで守らねばならないと実教育をすべきでしょう。外国で歴史をよく勉強させるのは、愛国心を持たせるのが教育目的だそうです。

それを単なる暗記物にして年号だけ覚えさせたり、大学入試にも歴史は除かれている今のお国柄ではどうなるものでもなかろう。尖閣を盗られ、沖縄も盗られ、最後は日本本土が奴隷化されかねない現状を俯瞰すれば、未来は暗澹たるものである。

布衣草莽

出典








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