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我々はどこから来たのか

(このコンテンツは、「国家最大のタブー」の解説記事をコピペしたものです)
参考/明かされた古代出雲大国


田楽男








このテーマについては、古今東西、千差万別、色んな説があり、日本史オタク達が皆それぞれに自説の正しさを唱えていますが、ユニークな説の一つとして、関連する写真を資料として添付、補強しつつ、以下の説を紹介するものです。

尚、作者については調べましたが、dorabida1207 だけしか分からず、氏名等は不明ですので、悪しからず。加えて、この説に対しては、5チャンネルで1,000件強のレスがあり、大反響を呼んだ説だとのことです。



■日本人の祖先の偉大な旅 ~我々はどこから来たのか


 約6万年前に人類はアフリカから出発し、車も飛行機もない時代に地球上のあらゆる地域に進出、拡散した。南米の高地、北極圏、赤道直下のジャングル、寒冷地、乾燥地帯そして、それぞれの地域の気候・風土の環境に適合して、それぞれの人種・民族になっていた。大陸の東の海に浮かぶ日本列島にも、偉大な旅をして渡って来た、日本人の祖先の物語があった。それは今から3500年前の話である。

※ 約1時間のインタビューの間に、三島由紀夫は、このテーマについて
五島勉氏に強烈なインパクトを与えた“ヒント”を2つ授けたという。
1つは太古の日本民族と古代インドを結ぶ妖しい関係で、また、そこから発展してくる人類の超古代文明全体への、目くるめくような壮大なヒントだったという。そしてもう1つが、「人間の死後と転生」についての画期的なものだったというではないか。




■日本人は4大文明の一つインダス文明の子孫
(4大文明=エジプト文明、メソポタミヤ文明、インダス文明、黄河文明)

 いわゆるイズモ族は3千年以上前に、日本の本州に民族移動したと言う。「鼻の長い動物の住む国から来た」との伝承がある。

3500年以上前に、インド西北から戦闘的な民族アーリア人がインドに侵入して、先住民の土地を奪い牧畜を行った。母系制度で平和に暮らし農耕生活だった先住民はドラビダ人だった。

4大文明の一つインダス文明はドラビダ人が築いた。紀元前3800年頃から、砂漠化や洪水、河川流路の変更など、さまざまな理由によって衰退期であった。

紀元前3500年頃、インドの中部に、クナ国と呼ばれる小王国があった。(今のグナの町らしい)そこにイラン高原で遊牧をしていたアーリア人がが次々に侵入して来た。
←その後、混血をしながら南部に移住した現在のトラヴィダ人

アーリア人達は騎馬民族で父系家族制だった。森の樹木を切りはらいどんどん牧場を広げて、勢力を広めた。アーリアの男たちは、クナ人の家に婿が来ていない夜の隙を狙って泊まり込み、女たちに彼らの種を植える行動に出た。

彼達は父系家族民なので、戦いに長じていた。クナ国の家々は女戸主の家族だったから、まとまりが弱く、対抗できなかった。結果として、アーリア人との混血児をクナ族の女が産み、育てることが多くなった。

そして多くのドラビダ族は、アーリア人の奴隷にされた。母系家族制の民族は平和的だが、父系家族制度の民族が得意の戦争には弱い面があった。

この情勢の中で南方に逃れるドラビダ族もいたが、クナ地方を支配していたクナト王は別の策を考えた。当時インドには、バイカル湖方面から、ブリヤード人の商人が交易に来ることがあった。

彼らから「シベリアの南方の大海原の中に住民の少ない、温暖な島がある」と聞いていた。クナト王はそこに移住しようと考えた。出雲の古老は「イズモ族は、川を遡ってから砂の平原を通り、広い湖の近くから、長い川を流れ下って来た」と伝えている。

この「砂の平原」とはゴピ砂漠のことであろう。「広い湖」とはバイカル湖だと考えられる。「長い川」は黒竜江(アムール川)であろう。クナト王は移住計画を発表し、移住集団に加わる若い元気な男女を募集した。

数千人の応募があったらしい。そこで食料などを家畜の背中に積んで、案内役のブリヤード人を先頭に、移民団は出発した。まず北の山岳地帯を超えた。そこから東に進み、朝鮮半島を通る道が近い、と現代人は思うかも知れないが、紀元前の古代世界では、それは危険なことであった。獣でも縄張りがあり、近づくと攻撃してくる。ましてや弓矢を持つ異民族の国の中を大集団が通過すると襲撃され、
↑クナ国からバイカル湖経由カラフト迄は最短距離となる。 犠牲者が出る時代であった。


だから住人の少ないシベリアを通るのが無難であった。しかし冬のシベリアは極寒の地である。冬を避けて秋までに通過するために、移住者たちはゴビ砂漠を春に過ぎたことであろう。

篠田謙一さんの研究報告によると遺伝子DNAデータバンクに登録されている縄文人29体のうち、ブリヤード人と同じ塩基性配列のものが17体あり、その配列はブリヤード人とモンゴル人に共通する、という結果が出た。

登録数が少ないので偏りが考えられるが、ブリヤード人が縄文人に混血していることは間違いない。アムール川上流に自生していたソバの実をブリヤード人が倭国に伝えた、とも言われる。

その上流で、移民団は木材を用意し、筏と櫂を作った。そして食料を、家畜の背中から筏に移した。食料と家畜は途中で食べられて減少し、最後にはすべてが移住者の胃袋に消えたことであろう。

筏に乗ったあとは、簡単であった。川の水が数千キロの距離を間宮海峡まで、移住民を流し運んでくれた。歩き疲れることはなかった。

古代にブリヤード人が倭国と交易していたことは、北海道産の黒曜石の石器がアムール川流域やバイカル湖岸から発掘されていることで証明できる。

ブリヤード族はバカル湖付近に住むが、アムール川を舟で下れば、楽に日本に来ることがてきた。アムール川は縄文時代の重要な交易の道であった。

一行は樺太(サハリン)西海岸を南に進み、古代に本州人が「渡り鳥」と呼んでいた、北海道に上陸し、そののち津軽半島にに渡った。

ドラビダ族はサルタヒコ(鼻高神・性神)の信仰をもっていてサルタ族とも呼ばれた。九州の宇佐八幡宮の社家であった宇佐公康さんが、社家の伝承を本にしている。

それにイズモ族の移住について書いている。すなわち「サルタ族がシベリア方面から、日本列島に移動漂着した」と。宇佐八幡の付近に住んでいたウサ族は、サルタ族より先に日本に住んでいたらしい。

尚、ご存じのとおり、津軽半島の三内丸山遺跡には、約5500~4000年前の1500年間ブリヤード人が定住していた。その遺跡からは現代人が想像するより、はるかに文明が発達していたことが、伺える。

日本人の遺伝子の検査により、出雲族には、ドラビダ人の他にも、アジア大陸各地の血が混じっていることが、明らかになっている。民族移動の道中の混血は当然だ。

日本人の祖先は3000年前にインドから日本列島に民族移住したというと、日本人全員それは絶対にあり得ないとの反応があると思う。日本人の古代史に関する常識では、トンデモ話とされる。

そういう常識になったのも「記紀」で出雲王国が抹消されたためだ。尚、これだけは理解してほしい。南米のアンデス文明を築いた民族は、最初から南米に住んでいたわけではない。

我々、日本人と同じ顔つきをしたモンゴロイドが今から、1万5000年~1万2000年ほど前にアジアからベーリンク海峡をわたって、南米まで到達したのだ。そして標高6000メートルの高地で生活を始めて文明を築いたことを。

我々の祖先は、想像できない、とてつもない偉大な旅をして世界中に進出、拡散し、環境に適応してそれぞれの民族になっていった事実をわかってもらいたい。

我々人類・ホモサピエンスは、最初からその地域にいたわけではなく、約6万年前に人類はアフリカから出発し、紆余曲折を経ながら世界中の隅々まで拡散・進出したのであり、現代、日本人のルーツである縄文人も紆余曲折を経ながら日本列島に渡ってきた歴史があるのである。

最初から日本列島に縄文人がいたわけではない。縄文人は遠い昔にどこからか日本列島に渡ってきて住み着いたという歴史がある。それが後に縄文人と呼ばれるようになった。

しかし、縄文人は、いつ頃、何処から、どういう民族が、どれくらいの人数で日本列島にやって来たのか。民族のルーツ・祖先について答えられる日本人は、いないのである。

多くの日本人は先祖は中国大陸や朝鮮半島から来たと漠然と思っている。確かに渡来人などにより、混血されている面があるが、基本的には違う。

中国も韓国も父系家族制度の国で父が威張る民族だ。父系制度の民はまた好戦的という側面を持つ。ところがドラビダ族=縄文人=出雲族は母家族制度(婿入り婚も含む)の民族だ。

また出雲族より先に日本列島で暮らしてた日本最初の生活文化圏であった南北の、北海道・東北また沖縄・九州の民族も母系家族制度だった。

家族制度から見ても縄文人のルーツ・祖先は、中国人や韓国人とは違うのである。この母系家族制度の特色は争いを好まず、平和的ということだ。

和をもって尊ぶという日本人の精神は、母系家族制に起因する。家族制度(結婚形態)というのは民族の根源的なものであり、簡単には変えられないのである。

しかし、その遠い昔の日本人のルーツ・縄文人については、「記紀」によって出雲王国史が抹消されたために、ドラビダ族=縄文人=出雲族の記憶も消えてしまった。

日本人・縄文人の記憶のルーツは官史によって、完全に閉ざされてしまったのである。それは歴史の敗者になった出雲王国の宿命なのかもしれない。

イズモ族が古代インドから来たことは、縄文時代の日本語(ヤマト言葉)か゜ドラビダ語にそっくりであることで理解できる。言語学者の大野晋さんは著書「日本語とタミル語」でタミル語の文法が日本語と似ていることを説明している。

タミルはインドの南部地方で、ドラビダ族の一種が住んでいる。イズモ族が古代に共に住んだインド中部のドラビダ族のうちで、南へ移動したのがタミル人だと考えられる。

尚、ドラビダ族はブリヤード人=モンゴル人と似た顔つきだった。今のインド人はアーリア人支配以後の顔である。フィリッピン人がスペイン人に征服され血が混じり顔つきが西洋人ぽくなったのと同様である。

ドラビダ語に古代モンゴルなどが混じって出雲語ができた。それが基になって日本語ができた。つまり出雲王国に各地の人が関係したから、出雲王国の言葉が共通語になり日本語が形成されたらしい。

日本人の先祖・縄文人は中国大陸や朝鮮半島から来たという大半の日本人が漠然に思っている説は言語学的にも大分、遠い。クナト王が日本列島に上陸した時に、カネの兜(かぶと)をかぶりカネの槍をもっていた、との伝承がある。

ドラビダ語では、金属をカネと言った。その言葉が日本でも使われている。クナト王の所持していたカネ製品は、アカガネと呼ばれた銅製品であったらしい。

インドでは紀元前1300年以上前から、鉄が使われている。金属器が生活必需品になっていたから、クナト王は移住の時、金属精錬の技術者をイズモ族として連れてきた可能性が大きい。


■出雲の「黒い川」


 本州に渡たり、東北地方に住んだ後、移住者は分かれて行った。クナト王の子孫は日本海沿岸を南に移動し、最後には出雲の地に住みついた。暖かい関東平野や濃尾平野があるのに、なぜ雪深い寒い出雲に住んだのか。

その訳は「出雲に黒い川があったからだ」と伝承は述べる。黒い川とは、現在の斐伊川のことであろう。その川底や河原には砂鉄がたまり、黒く見えることがある。古代には砂鉄がもっとも重要な産物だった。

斐伊川は「聖なる川」としてあがめられた。その川には、「ゆまり」(小便)をするのも禁じられた。「鉄は国家なり」と言われるが、古代でも国家の繁栄を左右していた鍵は鉄だった。石器から鉄器の時代になると文明は飛躍的に発展する。自然に川底にたまった砂鉄は「川粉(かわこ)ガネ」と呼ばれたが、それだけでは足りなかった。

後では山の真砂(まさ)・(花崗岩が風化したもの)がくずされて、「鉄穴流し(かんなながし)」が行われた。それは真砂を溝に流して、砂鉄を選り採る方法である。奥出雲山地の真砂砂鉄は、チタンなど有害不純物が少なく、低温精錬が容易で還元性に優れている。

タタラはドラビダ語で「猛烈な火」を意味する。日本で最初に行われた製鉄は、「野たたら」と呼ばれた。このような鉄の低温精錬は、古代にオリエント地方でも行われたことが知られている。

出雲王国は「鉄器の国」とも呼ばれた。それは明治期の西洋の近代的製鉄が導入される江戸時代まで「たたら製鉄」は日本の鉄の総生産の80~90%を担っていた。

尚、クナト王の子孫は、イズモに住み着いた。インドの熱帯では、常緑樹が濃緑色にしげっていた。それに対し、新しい土地では、春に芽が出た森の色が、目にしみるように美しく感じられた。かれらはその色をめでて自分たちの地方を「出芽(いずめ)の国」と呼んだ。その発音が変化して「出雲の国」になったと伝わる。



■出雲王国の風景


 出雲の北部には、島根半島がある。その半島は天然の防波堤であった。王の海は波静かで、その岸は良い港となった。誤解が多いが王国の都は現在の松江市である。

そこに国の内外から交易の舟が来た。出雲の輸出品はカネと首飾りに使われる玉類であった。勾玉も韓国人が高価で買い求めた。特に鉄は各地の人々に重宝され、買いに来る人々で出雲(松江市)の港や村は賑わった。

景気がよかったので毎日、景色の良いところで老若男女が昼間から宴会を開いていた。出雲では庶民は労役を課せられることもなく、厳しい年貢もなかった。それがDNAに刷り込まれていて今も、エビスさん、ダイコクさん信仰が続いているのかも知れない。

出雲で採れる良質の砂鉄と鉄製品は各地から求められた。豪族たちが最も欲しがったの鉄器は、槍の先に付ける双刃の小刀であった。それはウメガイと呼ばれた。それで木を削って木製品をつくるために、日用品としても、使われた。

イズモ族はインドでの風習であった祭りを、各地で続けていた。春分の日に春祭りを、秋分の日には秋祭りを村中で行った。それは年2回の待ちに待った祭りだった。

メインは歌垣で、それはあとのお楽しみ付の合コンのようなものだった。現代人は紀元前200年頃の事代主がいた時代を想像しずらいと思うが、胎児の形の勾玉を造るには、その曲線の多い胎児形に石を加工する技術ならびに、また勾玉に糸を通すために穴を開けなければならない。

そのためには穴を作るには鉄の錐(きり)が必要だ。石を加工して胎児形の勾玉を造るのは、現代でも容易ではない。紀元前の出雲王国には、現代でも難しい技術をもっていた文化の発展していた国だった。その名残が松江市に玉造り温泉とか勾玉づくりとして残っている。



■ 続  編 ( 日本の源流 )


今朝、日経を見てたら朝鮮通信使を世界記憶遺産へ登録を目指す決起大会を長崎県「対馬」で行った、との記事がありました。

全くそのことに水を差す話ではないのですが、「対馬」の名前の由来について。中華思想では、他民族を意味する言葉には、動物(魚を含む)の字を使う。ヤマト国を「邪劣な馬の台地の国と蔑字(軽蔑の漢字)と馬の字を使って邪馬台国と表した。

ヒミコについては姫巫女(ヒメミコ)のことを聞き間違えたのか、メを省いたのかのいずれかである。同様に蔑字を使い卑弥呼と書いた。ちなみにヒミコとは、宇佐家の豊玉姫である。

話はとんでしまったがツシマは古くは、津島と書いた。意味は「良港のある島」である。ところが漢民族が「対の馬の国」と書いたら、日本人も真似して「対馬」と書いた。

なぜ 「日本書紀」でヒミコ・ヤマタイコクの話は省かれたのかというと、話は簡単である。渡来人の子孫が和国の王になったからである。日本書紀が書かれた当時、奈良の都の貴族の大半は、渡来人・徐福の子孫である物部氏や海部氏が占めていた。

先祖(渡来人)が和国の王になった話など、とても外交上、書けなかった。ちなみに日本で一番、多い姓である鈴木姓は物部系である。


■ヒミコ、ヤマタイコク不毛赤面論争


ヒミコ、ヤマタイコクは歴史の断面では、第二次物部東征の一コマである。まずヒミコの正体は宇佐豊玉姫である。宇佐家というのは、宇佐八幡宮の社家であり、九州の豊前と豊後が分かれる前の豊王国の王家だった。尚、豊王国のウサ(宇佐)(ウサ族も母系家族制であった)。

豊王国の宇佐王家は、豊前と豊後の中間の宇佐にあった。月の女神(月読尊)月を拝む民族だった。ウサギ族と最初、言われてたが、なまってウサ族になった。

第二次物部東征を計画していた物部イニエ大王の再婚相手が宇佐豊玉姫であった。第二次物部東征を実行する前に物部イニエ大王は短命で九州で亡くなった。

宇佐豊玉姫は皇太后として女王となり、イニエ大王の意志を引き継ぎ、第二次物部東征軍総指揮者となった。実行する前に魏に使いを送り、魏の属国になるからヤマトの女王として認めてもらうことと、鏡、親魏和王の金印や旗等をうけたまわった。

第二次物部東征は物部軍と豊国軍とタジマモリ(辰韓ヒボコ子孫)軍の連合で行われた。侵攻軍は瀬戸内方面と山陰側に分かれて進軍した。

豊国軍が安芸の国に留まっていた248年頃、女王宇佐豊玉姫は安芸国のえノ宮で没し、その遺体は「安芸の宮島」に仮埋葬された。戦時中であるので、女王の墳墓は厳島には造られなかったが、遺骨は宇佐に移された。

宇佐八幡宮から見える奥山に、墳墓があると言われるから、それが豊玉姫の墓であるらしい。遺骨の一部は宇佐神宮に移され、本殿の二ノ御殿の下に、ウサ家の先祖と共に祭られていると言う。

二之間の神は「姫神」とされている。 中国人は中華思想により、他国のことを動物(魚を含む)の字を使ったり、蔑字で書いた。ヤマトの国のことをそれで、邪馬台国(邪し馬の台地の国の意)と書いた。日本人が勝ってに日本語読みして、ヤマタイコクにしてるだけだ。

尚、豊玉姫の娘・豊のことを台与(トヨ)と別に記載があるが、台は(ト)と読む。ヒミコについては、中国人には姫巫女ヒメミコがヒミコに聞こえたらしい。それで蔑字で卑弥呼と書いた。

尚、話はちょっとややこしいが、魏書に書かれた卑弥呼(姫巫女・ヒメミコ)は二人いて1人目が、魏書前半に書かれているのは150年頃のヤマト磯城王朝第7代のフトニ大王の娘の三輪山の姫巫女(女司祭者)のモモソ姫である。


魏書後半に書かれたの2人目の卑弥呼(姫巫女・ヒメミコ)が、論争になっている卑弥呼(姫巫女・ヒメミコ)・宇佐宇佐豊玉姫である。宇佐豊玉姫は月神信仰の姫巫女であった。どちらも同じ(姫巫女・ヒメミコ)・卑弥呼なのである。


■中韓連合に滅ぶ(紀元250年頃)


 その物部氏勢力の猛攻撃というのは、中韓連合であった。「出雲王国」は紀元前400年頃~紀元後250年頃の600年以上の長きに続いた王国であった。

渡来人の徐福の九州の子孫である物部氏の軍勢と紀元1世紀頃に辰韓(新羅)から渡来してきた辰韓王の長男ヒボコ(この頁の下に集団渡来の詳細を記載/天之日矛)の5世の子孫である田島間守(日本名: タジマモリ/但馬守)率いるヒボコ軍勢の渡来人連合による猛攻撃で滅ぼされた。

特に田島間守(タジマモリ)は、先祖・ヒボコと家来集団が、出雲での上陸を許可されなかったことを根にもっていた。そのため、東征する前に出雲王家を皆殺しにすると宣伝していた。

そして田島間守(タジマモリ)率いるヒボコ子孫勢力は当時の出雲の祭場・田和山の王宮を猛攻撃で破壊した(田和山遺跡)。それが第二次物部東征での道中での出来事である。「記紀」では神武東征として書かれた。

日本で最初の王国、「出雲王国」は中韓連合によって、滅ばされた。残念ながら日本の政治家は自国の歴史を知らないから、歴史認識で中韓にとやかく言われるのだ。それは、恩讐としてではなく、史実として歴史を知るということだ。


■竜神(へび)信仰


 インドのガンジス川に昔、ワニがいたと言う。ワニは怖れられ神に祭り上げられたて、河の神と呼ばれた。同じくコブラも怖れられち、森の神となった。

両者は合体されナーガ(竜神)となり、ドラビダ族に崇拝された。その竜神信仰を出雲族が倭国に持ってきた。その竜神が幸の神(サイノカミ)の眷属(けんぞく)神になっている。

出雲族は竜をワラで作り、木にまきつけて、拝んだ。その木は神木とされ、「斎(さい)の木」と呼ばれた。山陰地方は「斎(さい)の木」信仰が盛んな地域である。

出雲族の竜信仰はへび信仰にもなっている。尚、縄文時代は、ほとんとが出雲族だった。ある時、縄文人が土でへびのトグロを作り、それを素焼きにした。

そしてひっくり返して、内側をなめらかにしたら器にいいことに気付いた。それが縄文土器の始まりだった。またヘビは世界各地で男根の意味に使われた。ヘビ=生殖でもあった。

尚、東出雲王国の向家の紋章は、竜鱗枠(りゅうりんわく)銅剣交差紋であった。外枠はいわゆる亀甲紋ではなく、出雲族の崇拝する竜神・ヘビのウロコの形である。銅剣は王者の象徴ともいわれた。

出雲系の神社の社紋の外枠は竜鱗枠になっている。山陰地方「ワラヘビ」の風習がある。竜神が斎の木を伝って昇天し、また斎の木を伝って、天から地下に戻ると言う。その姿を示すために、地区の人々が集まってワラで竜を作る。それを「ワラヘビ」と呼ぶ。

出雲地方では、稲刈の後の十一月に、「荒神祭り」として、それを作る。伯耆地方では、「ワラヘビ」の腹に大きな男根を付ける村もある。斎の木に巻き付ける時、「抱き締めろ、抱き締め」と囃す。木の根には白い紙垂(男の種水の表象)がつけられる。白い紙垂が多いと、男が元気な印で、お芽出度いという。 


■日本人と注連縄


 「記紀」で出雲王国史が抹消されたため、日本人は民族の源流、風習の意味がわからなくなった。また幸の神(サイノカミ)のことも日本人は忘れてしまった。

幸の神(サイノカミ)も国家に神道として横取り、利用された。そのため、日本人が本来もっていた原始土着的信仰・アミニズムがどこから来たのかわからなくなった。それは例えば、注連縄の本来の意味を知る日本人は皆無だ。

インドから民族移住したドラビダ族=縄文人=出雲族、幸の神信仰のことがわからないからだ。注連縄とは出雲族のへび信仰に由来するものだ。注連縄とは雄雌のへびの交尾である。へびの交尾はあのようにぐるぐる巻きになって相手の目を見つめ抱き合い、固く結び合って行われる。

古代人は自分の種族を残すために、全身全霊を生殖に捧げている姿に崇高すら感じ、これは神の姿だと思った。その一日がかりで行われる、その凄まじい子孫繁栄の性エネルギーの姿に圧倒され、神聖な畏怖の念をもった。

「へびの交尾」の表象が注連縄である。また白い紙垂は雄のあふれでる種水を表している。三つの房は生まれてくる三匹の子を暗示する。現代人はへびというと、眉をしかめると思うが、古代ではへびは動物の王者だった。

なので古代オリエントでは王家の紋章はへびが使われた。古代エジプトでもそうであり、クレオパトラはへびの冠をしていた。ドラビダ族=縄文人=出雲族は古代人の素直な精神を引き継いでいた。

自然の猛威、怖い動物、大きい岩・・等々は古代では自然に崇拝の対象となった。その古代人の自然に対する素直な崇拝する精神、また性の原理すなわち生命創生・穀物豊作・男女和合・子孫繁栄といった自然の原理を何より芽出たいと崇拝する精神があったからこそ、注連縄・「斎(さい)の木」・縄文土器、等々の造形が生まれた。

自然のあらゆるものに崇拝の気持ちを持った、それが八百万の神々と呼ばれるようになった。尚、神社というのは、鎮座する敬う先祖神に、生命創生のシンボルである注連縄(へびの交尾)を前に、子孫繁栄を祈願する所である。


■太陽信仰


 出雲族はインドから、太陽の女神スーリアも持って来た。その太陽信仰では、東の山から昇る朝日を拝む習慣になっていた。出雲族は早寝早起きだった。薄暗いうちに起き、朝日が昇るときに、家族が一緒に太陽を拝む習慣があった。

紀元前215年頃、徐福が出雲王国で主・副王の同時暗殺テロ事件を起こした後、出雲族は渡来人との共生を嫌う人が多かった。そして新天地での王国造りを目指した。そしてまだ人がほとんどいなかった、ヤマト(奈良)を開拓した。葛城から、三輪山が見えた。

形が美しいので、多くの人が崇拝した。出雲族たちは、よく見える場所に集まって、昇る朝日と共に拝んだ。出雲王国と同じく、年2回春分と秋分の日に、事代主の娘・タタライスズ姫が司祭となって、太陽と山の神に祈る祭りを行った。

当時は、祭政一致の時代であった。そして母系家族制の影響で姫巫女(女司祭者)が政権者(男の王)より、尊敬の大きい、いわゆる姫巫女(ひめみこ)制になっていた。出雲王国と同じく、祭りに集まる人々の結びつきから、幸の神信仰と協力の政治が行われた。

その政治はマツリコゴトと呼ばれた。大和の各地の人々が集まるようになったので、祭りを三輪山の西山麓ですることになった。大和の人々は、彼女を三輪山の太陽の女神であるかのように崇拝した。

以後、三輪山の太陽の女神の姫巫女は代々、事代主の家系の東出雲王家(富家、出雲臣家、のちに、むかい向家と名乗る)の分家の登美家の姫が執り行う、仕来たりになった。三輪山の太陽の女神、はその後、伊勢に移された。

それは奈良時代に書かれた「記紀」では、天照大神として、皇室の始祖神にされた。三輪山の地元の伝承では「神武さんより、三輪山の神さんのほうが先だ」という伝承がある。

三輪山の祭神は事代主とへびになっている。鴨都波神社、一言主神社、大神神社、高鴨神社、御歳神社といったヤマト(奈良)の古社はすべて出雲族が建てた神社だ。

三輪山の近くには出雲屋敷がのこっている。尚、近年巻向くの遺跡が話題になっているが、150年頃の三輪山の太陽の女神の姫巫女・モモソ姫時代の三輪山の太陽の女神祭祀に、遠方各地から、かけつけた豪族の宿泊するところであった。日本という国名も事代主の血をつぐ安倍王国が最初に名付けた。それも太陽信仰からきている。


■幸の神(サイノカミ)

 その後、出雲の各地の代表は春分の日と秋分の日に王宮・神魂の丘(松江市大庭町・王の庭、場という意味)に集まり大祭を行った。そしてドラビダ族=縄文人=出雲族の民族移住の指導者だったクナト王を民族の守護神として定め、幸の神(サイノカミ)と呼んだ。

また幸の神(サイノカミ)は家族神(幸の神三神)で構成された。主神が「クナト大神」、母神を「幸姫の命」、息子神を「サルタヒコ」と呼ばれた。

サルタはドラビダ語で長鼻(男性器の隠語)という意味なので、サルタ彦は「鼻高神」とも呼ばれる。幸の神(サイノカミ)の特色は子孫繁栄(生殖)の神である。先祖・幸の神を敬い、子孫繁栄の守護を祈願するものだった。

子孫繁栄には結婚と出産が必要である。幸の神(サイノカミ)は「縁結びと子宝の神」とも言われる。子孫繁栄(生殖)には広い意味では、夫婦円満、子宝安産、万物創生、五穀豊穣、男女和合、豊作祈願、招福除厄、無病息災・・等が含まれる。つまり性の原理(生命創生・五穀豊穣・自然原理)を芽出たいとする考えが人生の基本になっていた。

また古代は医療が未発達で祈るしかなかった。自然の猛威の前にも同様だった。世界の3大宗教は性を罪悪視する考え方だが、日本人は幸の神(サイノカミ)のおかげで、性に対して寛容な国民性となった。

また3大宗教のような一神教、排他的な考えをもつことが避けられた。また幸の神(サイノカミ)のおかげで日本人は先祖神を何より敬う精神構造になった。幸の神の(サイノカミ)が全国に広まり、各地の御柱(男根崇拝)祭り、有名なもので名古屋小牧の「豊年祭り」、長野の女男神像、等がある。

尚、神道というのは幸の神(サイノカミ)が国家に横取りされたものである。地方の田舎の家では神棚に先祖神・幸の神(サイノカミ)を拝んでおり、神道とかと呼ぶ庶民はいないのである。正月と言えば日本最大の行事であるが、正月も元々は幸の神(サイノカミ)の行事として始まった。

正月は幸の神(サイノカミ)さんのことを特別に歳徳神・歳神(としがみ)さんと呼んだ。お供えを用意し先祖神の歳神(としがみ)さんを家に招き迎えた。そして女夫が添寝をし、仲よく幸せにやっていますよというところを見せて、先祖神・歳神(としがみ)さんに安心をしてもらうことが重要だった。

だから正月の姫初めは大事な神事だった。尚、紀元前100年頃にヤマトに出雲族が建てた正月の神さんを祭る御歳神神社が鎮座する。「記紀」が出た後、神社の祭神は政府の意向で出雲系の神、及び「幸の神」はずいぶん変えられた。それは「記紀」で初めて登場したイザナギとかイザナミ等々に変えられた。

それでも出雲系の神、大国主や事代主を祭る神社が現在でも、全国各地に多数ある。それだけ幸の神(サイノカミ)信仰が、日本全土にひろまっている証拠である。

それは縄文人=出雲族=日本人の民族の風習・伝統・行事といった民衆レベルのことは、支配者が変わろうが、なかなか変わることはないのである。

またへびのトグロに似た山が、「神がこもる山」(神名備山かんなびやま)として崇拝された。中国地方最高峰の大山は、伯耆富士ともいわれるように、三角錐の形をしており、代表的な神名備山である。その大山は、出雲王国時代から奈良時代までは、大神(おおがみ)山と呼ばれていた。

何故、大神山(おおがみやま)と呼ばれていたかと言うと、出雲王国の王宮がある大庭おおば(松江市大庭町)から、春・秋の年2回の大祭の時に遠方、各地から参集した豪族たちは、、各種、催しもの・宴会が終わった最後に、全員で東の彼方にクナトの大神がこもるとされた崇高な大神山(おおがみやま)に向かって遥拝した。

その後、大神山(おおがみやま)の麓には、大神山(おおがみやま)神社が遥拝地として建てられた。また後に大神山(おおがみやま)の、山腹に大神山(おおがみやま)神社奥社も建てられ、現在も続いている。

尚、なぜ大神山(おおがみやま)が、大山(だいせん)と呼ばれるようになったかというと、奈良時代に仏教勢力が強くなり大神山に大山寺(だいせんじ)を建てた。それ以降、地元の人々は大神山(おおがみやま)と言わずに、大山寺(だいせんじ)があるので大山(だいせん)と呼ぶようになった。

尚、大神山(おおがみやま)神社が出雲王国、サイノカミ、クナトの大神の名残を今に留めている。しかし残念ながら、なぜ昔、大神山(おおがみやま)と言われていたのかということを知っている地元の人は、いない。これも「記紀」の影響で出雲王国が忘れられたからだ。


■「三」は聖数


 尚、サイノカミ(幸の神)三神というように、幸の神では、「三」が聖数として扱われた。それで結婚式で使う三三九度用の三つ重ねの盃は「三三クナト」の意味が込められている。大きい盃は花婿を、中の盃は花嫁を、上の盃ははうまれてくる赤ん坊を象徴する。三宝も幸の神からだ。 

また、三拍子そろうと縁起が良い、も幸の神三神からきている。万歳三唱(当時はイズメ、イズメイズメ)も聖数「三」からきている。締めの拍子を三つ打つのも同様である。 幸の神三植物は松竹梅だ。松の葉は乙女の下の毛に似ているので(若松様)と呼ばれ縁起が良い。竹の筒は男性のアレである。梅の花は、幸の神では「産め」に通じるので、最高の花とされる。
 

■「八」も聖数


 太陽信仰からきており、日本海軍旗のように、朝日が八方に光りを放つ姿に見えるのでその八本の光から来ている、という。 サイノカミ(幸の神)では、「八」も聖数になっている。

例えば「ワラヘビ」は尻尾を八回巻き終わると、竜の威力が現れると言う。頭に締める「ハチマキ」はそれに起源を持ち、ヘビの霊力により、幸運が訪れると言われた。 八の字は末広がりで縁起が良いと言われた。

地名・人名では八雲、八束郡、八重垣、八千矛(やちほこ・大国主の個人名)、八重波津身(やえなつみ・事代主の個人名)、 出雲の枕詞が「八雲立つ」になったのは、八の聖数のためだった。  




■秦の始皇帝を騙して渡来した徐福(紀元前219年頃)


 始皇帝は、その短い15年の治世期間に広い中国を5回も行幸している。表向きは威厳を示すためと言われたが、真の目的は不老長生の薬探しだったと言われる。

始皇帝は永遠の命が得られるということで、水銀を飲んで亡くなったと言われるくらいの不老長生オタクだった。徐福は自分が住んでいるとこに行幸して来た始皇帝に近づき、蓬莱(ほうらい・和国のこと)には仙人が住んでいて不老長生の仙薬があると手玉にとり、莫大な金を使わせ、山東(シャントン)半島から蓬莱を目指した。

先遣隊として徐福の息のかかった○○が親子で先に出雲王国に到着した。銅鐸に似たような物を土産として、後日、大集団が来るので上陸の許可を願いたいと。言葉どおり、翌年、紀元前219年頃に、出雲の五十猛海岸に見たことがない何十隻の大船団が現れた。

約2000人弱にのぼる童男童女がアリの隊列のように上陸した。秦から来た彼らは、高級機織りの技術を持っていたので秦(ハタ)族と呼ばれた。

尚、徐福は仙薬探しというのは口実で、本当は和国の王になるという野心を隠して始皇帝を騙して,和国へやって来た。「史記」「秦始皇本記」にこのような記事がある。

「紀元前219年、始皇帝は諸郡県を巡行した。ろうや山(シャントン省)に三か月も留まった。その時、斉人の徐福らが上書して述べた。・・海中に三つの神山があり、名前は蓬莱と方丈ほうじょう・えい州と言います(蓬莱は和国、方丈は韓国のチェジ島、えい州は沖縄だと言われる)島上に仙人が住んでいて、仙人は不老長寿の仙薬を持っています、心身を清め、けがれなき童男童女を連れて仙人を求めたいと思います」と。

そこで始皇帝は徐福をつかわし、童男童女数千人をおくって、海に出て仙人を探させた。また「漢書」の「地理志」に千童県という地名が書かれているが、その地名は370年間続いた。唐代の書「元和群県図志」に次のように書かれている。

「じょ安県はもと漢の「千童県」で、徐福が衣食や船と梶を準備した所である」と。現在そこはホーペイ(河北)省塩山県「千童鎮」となり、そこには徐福集団の、日本渡海を記念して、立派な千童祀が建てられている。



■徐福の再来日(紀元前210年頃)


 「史記」「秦始皇本記」に徐福のその後の話がある。37年(紀元前210年)、始皇帝はシャントン省に至った。方士の徐福は海に浮かんで仙薬を求めたが、数年すぎても得られず、使った費用は莫大であったから、責任を取らされるのを恐れて偽って言った。

「蓬莱島の薬を手に入れることは可能です。しかし幾度も大ザメに苦しめられて、島に着くことができません。どうか弓の名手を連れて行かせて下さい。大ザメが現れたら弩を連発して仕留めましょう」

同じ年の話が「史記」「准南衡山列伝」にも書かれている。徐福に神仙妙薬を求めさせたが、徐福は帰ってきて、偽って言った。臣は海上で神に出会いました。すると、その神は言いました。「おまえは西皇(始皇帝)使者か」と。「いかにも」と臣は答えました。神は「お前は何を求めるのか」と聞いた。「願い賜りたい物は、長生不老の薬です」と臣は答えました。「西皇(始皇帝)は礼献が少ないので、見せることはできるが、与えることはできない」と神は言いました。

その後、神は臣をつれて東南方の蓬莱に至りました。銅色竜形の使者がいて、天に昇り輝いたので、臣が拝んで改めて問いました。「どんなものを献上すれば、かなうでしょうか」すると神は「童男童女と五穀と各種百工を献上すれば薬が得られる」と言いました。

始皇帝はこれを聞いて大いに喜び、さっそく男女三千人と五穀・種々の熟練工を与え海に行かせた。徐福は平原平沢を得て、とどまり王となり、帰ってはこなかった。この記録により、3千人以上の人々が出航し黄海を東南へ向かったことがわかる。かれらの出発した所は、シャントン半島北部のポンライ(蓬莱)という海岸だと言われる。

蓬莱島を目指して出発したので、この名前がついた。徐福と童男童女の2回目の渡航は、北九州を目指した。そして有明海沿岸に着いた。着いた島国には「平原」がある、と「史記」に記されている。その平原は筑紫平野であった。

築後川の下流の諸富から柳川にかけては、古代には沼地だったので、「広沢」と言われた、と考えられる。徐福は2回合わせて5千人以上の、若い男女を新天地に連れてきた。

紀元前200年頃の5千人以上の子孫は、その後、大きな人口になっている。日本書紀は中国人にも見せるために、漢文で書かれた。徐福集団の渡来を中国人が知ると、倭国は中国の植民地だと軽く見られることを、外交上警戒したのかも知れない。

奈良時代に書かれた古事記と日本書紀には、徐福集団の渡来は隠された。しかし現代は、奈良時代と事情が違うので、もはや隠す必要はないと思われる。

徐福集団の渡航については、「後漢書」「東夷伝」にも書かれていて、中国では史実だと考えられている。「会稽(かいけい)(長江の河口地域)の海のかなたに東 (とうてい)人(倭人)がいる。分かれて、二十余国になる。

伝えて言うには、「秦の始皇帝が方士(道教の師)徐福を遣わし、童男童女数千人をひきいて海を進み、蓬莱の神仙を求めさせたが、得られなかった。徐福は誅(ちゅう・罰の死)をおそれて、あえて帰らず、ついにこの州に止まった。かれらの子孫が増えて、数万家になる。

かれらの中には、時に会稽に行って交易を行う者がいる」と。吉野ケ里遺跡は紀元前200年頃に造られた徐福集団の住居跡である。新しく秦を築くということで築秦国となり、その後なまって筑紫国になった。

また、かれらが築後平野で焼いた土器が日本の弥生土器の基になっており、弥生時代というのは徐福集団がもたらした。尚、徐福は出雲王国では火明(ホアカリ)と名乗り、九州ではニギハヤヒと名乗った。それぞれ名前は違うが同じ人である。

だから旧事本記では「ホアカリニギハヤヒ尊」と続けて書いて、一人と見なしている。徐福は築秦王国を造ったのち、築後平野で亡くなったという。だから、吉野ケ里遺跡のどこかに埋葬されている可能性が大きい。

「肥前国風土記」の三根の群に「むかし三根の群と神埼の群は、合わせて一つの群であった」との記事がある。神埼の群に「むかし、この群に荒れる神がいて、往来の人が多く殺された」と書かれている。徐福集団は先住民を追い払い抵抗するものは殺したのであろう。

その徐福が上陸した佐賀県諸富町の道角には、立派な徐福の全身像壁画が飾られている。徐福は上陸したとき、まず井戸を掘らせたという、その井戸が今も民家の裏に残されている。それが「テアライ(手洗い)の井戸」と呼ばれたが、なまって「寺井」の地名となった。

そこの小川にかかる橋には「徐福寺井橋」と書かれている。徐福は上陸し落ち着いたあと、西北方の金立(きんりゅう)山に登り天を拝んだ。今その山の頂上には、金立神社上社(佐賀市金立町)がある。

麓に、金立神社下社が鎮座する。金立神社には、徐福を「金立大権現」として、まつっている。童男童女たちは成人しても、故郷に帰れずに、筑紫平野方面で亡くなった。かつての童男童女をまとめて「海童神」とした供養塔が、下社の境内にひっそりと建っている。

出雲市に徐福集団の子孫が建てた海童神社があるのと同じく、佐賀市の西方、白石町深浦竜王崎にも「海童神社」が鎮座する。長崎自動車道のサービス・エリア近くに、徐福長寿館(佐賀市金立町)がある。そこでは、徐福伝承や薬用植物の展示をおこなっている。

徐福集団が上陸後住んだ地域が、志波屋遺跡群だと考えられるが、その拠点集落が吉野ヶ里遺跡である。その遺跡の特徴は徐福が住んでいたシャントン省にある「臨し」と吉野ヶ里遺跡はそっくりだということだ。

また遺骨を納めるために埋めた「かめ棺」が二千基以上出土している。それはシシャントン省から出土しとたものと同じだ。銅剣や鋳型工具が出土してるが秦時代のものだ。

「肥前国風土記」の三根の群・物部の郷に記事がある。「この郷にの中に、神の社がある。・・・その神を鎮め祭られた。これにより物部の郷という」三根の群・物部の郷は吉野ヶ里の近辺であり、吉野ヶ里には徐福が住んだ。

そこには物部氏の重要な旧跡であったことは、奈良時代までは知られていた。しかし「記紀」に書かれなかったので、忘れられたと言う。また、同じ、九州人でも「佐賀県人が歩いた後は、ペンペン草も生えぬ」と言うが、なるほどと思わせる話である。



■「ユダヤの失われた12士族」の子孫

 
 尚、話は前後するが徐福が住んでいた斉という国は、「ユダヤの失われた12士族」の子孫が住んでいた地域と言われている。古代ユダヤ人は黒髪・黒目のモンゴロイドであった。時々、日本人=ユダヤ人という説が話題になることがあるが、まんざらトンデモ話ではないのである。
←ユダヤ12士族の紋章

徐福は道教の方士(グル)であった。道教というのは、ユダヤ教とそっくりで、夜、山に登り、星を拝む信仰である。「7」を聖数としているのも同じだ。またイスラエルの国旗に採用されている、「ダビデの星」は中国では六亡星と呼ばれ、日本では「カゴメ紋」とされている。秦(ハタ)族と呼ばれたかれらの大半が「ユダヤの失われた12士族」の子孫と考えられる。





■ヒボコ集団渡来 (1)


紀元前100年頃、第二の渡来集団が、現れた。辰韓(新羅)からヒボコ王子とその従者(数百人)たちであった。ヒボコは辰韓王の長男であった。

王は跡継ぎ争いを避けるために、ヒボコに家来をつけて、財宝を持たせて和国に送った。それは次男を、跡継ぎにさせるためであった。それでヒボコは父王を恨んで、反抗的な性格になっていた。

「記紀」ではヒボコは新羅の王子と書いているが、その頃は辰韓の時代であった。かれらの船団は西から出雲の長浜についた。ただちにイズモ兵に導かれて、ヒボコと通訳はイズモ王であるオオナモチと面会した。

オオナモチは移住の条件として、先住民の土地を奪わないことと、出雲王国の八重書き(法律)を守ることを、かれらに求めた。ところがヒボコは高慢な気質をもっていて、それを拒否した。

そこでオオナモチは、かれらが出雲と石見・伯耆の地に住むことを禁じた。また遠方の適当な移住地を、世話することも止めた。ヒボコ集団はそのまま東に進み、タジマ(但馬)国の、円山川上流を逆上った。その沿岸に上陸しようとしたが、出雲族に追いはられた。

やむなく上流の大磯・豊岡市付近の広い沼地に舟を停泊させ、戦場生活を続けることになった。当時は円山川の河口は極めて狭く、津居山で塞がれていて、下流と中流は広い沼地になっていた。ヒボコは人々を指揮して津居山を削り、瀬戸の岩石を取り除く工事を行った。

その結果、沼の水が海に出て、広い肥沃な豊岡盆地が出現した。新しく陸地となった所に、ヒボコ集団は家と田畑を作って住んだ。その後の話であるが、ヒボコは豊岡の地で亡くなり、出石(いずし)神社に祭られた。

その後ヒボコの子孫は、豪族となって勢力を増した。ヒボコ集団が工事を行った気比の村にも、ヒボコの子孫が住んでいた。かれらはヤマト王国に同調し、銅鐸の祭りを行った。

気比(けひ)川を河口から約1.5キロさかのぼった所にある気比神社の近くから、四つの銅鐸が出土したことで、そのことが知られる。




■その他の説 (2)


 両者を対比してみると、天のヒボコには剣がないが、他の品物は用途や種類がよく似ている。沖を航行する鏡、沿岸航行する、玉の緒と玉、領巾(ヒレ)と比礼。ヒボコの方では珠の緒の用途が不明だが、いずれ呪術などに用いるものだろう。その点ではニギハヤヒの玉とも通じるものがある。

 領布も含めてヒボコの神宝は、全て航行用のものと思って差し支えないようである。してみるとヒボコ一族は海の民であり、海部族のようなものであったと推測できる。ニギハヤヒの神宝は用途がより多岐に亘っているが、玉はやはり航行の安全を祈るものであったのだろう。

 或いは山幸彦の伝承に見るように、潮の干満を祈るものだったのかもしれないが、いずれにしても海に関係している。比礼だけが地上の安全に関係した神宝となっている。

 以上の比較からヒボコとニギハヤヒは同族、またはそれに近い近隣の国の種族だった可能性が浮かび上がってくる。出雲古族の富氏の伝承ではヒボコの神宝は勾玉となっている。吉田大洋はヒボコ族が渡来したのは、紀元前後の弥生中期であったとしている。

神武王朝末期には吉備王国も成立していたが、吉備氏はヒボコ族である。天皇家の慣習・祭祀に朝鮮色が濃いのは、ヒボコ族の影響によるところが多いという。

 ヒボコは播磨を大国主から奪った。播磨の国造の本拠地は白訓村のあるシカ磨郡で、射楯兵主神社の祭神ヒボコを氏神としていた。記の孝霊天皇の条には、大吉備津彦と若建吉備彦が播磨を拠点として吉備国を制圧したとある。吉備には造山古墳があるが、同古墳は日本でも四番目の大きさを誇っている。勢力の大きさが分かろうというものである。


 富氏の伝承では次のようになっている。ヒボコ族は朝鮮から渡来し出雲へ入ろうとしたが撃退した。彼等は但馬に逃げヒボコは豪族の娘と結婚した。やがて彼等は若狭、近江を経て大和へ行き朝鮮から来た倭漢氏と結んで安定した。後に鉄を狙って吉備を目指した。出雲軍は播磨の八千軍に防衛線を敷いたが、伊予や淡路の百済人がヒボコに加勢したために突破された。彼等は吉備王国を築き久米川から鉄をとり陶器を焼いた。

 後に天孫族と結び、物部と共に出雲へ攻めてきて、クナトノ大神の神宝を奪った。クナトノの大神は幸いの神、塞の神、道祖神、道陸神とも呼ばれ、熊野大社、出雲井神社、道祖神神社、幸神社などに祀られている。ヒボコ族から天孫族の妃が出て、“天”の称号を貰った。数百年が過ぎて、朝鮮から渡来した人々は我々の首長・継体に天皇となるよう懇願した。

 吉田大洋は天皇が都した付近の住民は多くが渡来人なのである。坂上田村麻呂の上表文見ると、大和国高市郡の八割ちかくが朝鮮からの渡来人であるという。田中卓はヒボコ族と戦った神としての大巳貴は、史実としては三輪君大友主・倭直長尾市に他ならないと言っている。 ヒボコは都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)であるとする説もある。その人が冠っていた王冠の形が、角が生えている。



■その他の説 (3)


神功皇后は、新羅から来た天日矛を母系とする皇后である。 実際は、神功皇后は、皇后ではなく天皇であったと思われるが、 大正時代に歴代天皇から外されたらしい。 大した根拠もなく古代歴史に勝手に変更を加えるのはいかがなものかと思える。

神功皇后が、異常とも思えるくらい新羅が好きだったらしい。 母方が新羅から来た天日矛であることと、家臣であり夫であった武内宿禰も新羅出身であったからだと思われる。

新羅は、インドから船でやって来たシュメール人が住んだ地域であった。 北九州や山陰地方や敦賀湾あたりも同じシュメール人が来た筈だから、 当時日本は新羅と親戚関係にあった訳である。

『日本書紀』などによれば、201年から269年まで政事を執り行なった。 夫の仲哀天皇の急死(200年)後、住吉大神の神託により、 お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。

新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという(三韓征伐)。 渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされる。

月延石は3つあったとされ、それぞれ長崎県壱岐市及び京都市の月読神社と福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納されたと言われている。 その帰路、筑紫の宇美で応神天皇を出産し、志免でお紙目を代えたと伝えられている。 他にも壱岐市の湯ノ本温泉で産湯をつかわせたなど、九州北部に数々の伝承が残っており、九州北部に縁の深い人物であったと推測される。


神功皇后が三韓征伐の後に畿内に帰るとき、 自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、 神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定したという。









天皇による「ゆかり」発言


■桓武天皇

白壁王(後の光仁天皇)の長男(第一王子)として天平9年(737年)に産まれた。生母は百済系渡来人氏族の和氏の出身である高野新笠。当初は皇族としてではなく官僚としての出世が望まれて、大学頭や侍従に任じられた(光仁天皇即位以前は山部王と称された)。
父王の即位後は親王宣下と共に四品が授けられ、後に中務卿に任じられたものの、生母の出自が低かったため立太子は予想されていなかった。しかし、藤原氏などを巻き込んだ政争により、異母弟の皇太子・他戸親王の母である皇后・井上内親王が宝亀3年3月2日(772年4月9日)に、他戸親王が同年5月27日(7月2日)に相次いで突如廃されたために、翌4年1月2日(773年1月29日)に皇太子とされた。その影には式家の藤原百川による擁立があったとされる。

天応元年4月3日(781年4月30日)には父から譲位されて天皇に即き、翌日の4日(5月1日)には早くも同母弟の早良親王を皇太子と定め、11日後の15日(5月12日)に即位の詔を宣した。延暦2年4月18日(783年5月23日)に百川の兄・藤原良継の娘・藤原乙牟漏を皇后とし、彼女との間に安殿親王(後の平城天皇)と神野親王(後の嵯峨天皇)を儲けた。



■天武帝「帝紀編集事業」(紀元683年頃)
 
 「記紀」がなぜ、史書として耐えられないのか。それには伏線があった。天武10年に、帝紀編集事業が始まった。天武帝は真実に近い古代史を書かせる方針だったらしい。それは編集委員の人選から推測できる。また編集委員は12人だった。ただそれが仇となった。各王朝の子孫が、過去の事件記述に際し、当時の敵味方によって利害が異なり、表現に対する衝突が続いた。

この対立の中で、各委員は自分の先祖王朝に有利な史書の下書きを書いた。また最初に出雲王国史を書くべきだ、とかれらは考えていた。しかし詳しく書くことに反対する者がいた。結局、各王朝史を一つにまとめる事はできなかった。結局ばらばらの記述書類が残されたまま、「帝紀編集」という大プロジェクトは休止状態になった。


■持統女帝の読書感想 (紀元689年頃)
 
 天武帝なきあと持統女帝の時代になった。当時は漢文が自在に、読み書きできる人は少なかった。漢文が達者なことが良く知られていた人が、人麿だった。草壁皇子が亡くなった2か月あと、持統女帝から人麿は召しを受けた。中国の神話の書「山海経」を読んで説明せよ、との話だった。この本は世界の始まりを想像した神話が書かれていた。また古代の王や政治家たちの話に、尾ヒレを付けた神話も書かれていた。女帝はこの本の物語を、ことのほか喜ばれた。この漢書を読み終わると、先帝が作らせた帝紀を読み解説せよ、命じた。帝紀は完成していなかったが、編集委員が作った漢文の下書きが残されていた。それを中務省の公文書保管の係りから借り出してきて、人麿は読みながら女帝に説明した。各委員の作った下書きを長時間かけて、あらまし読み聞いたあとで、女帝は吐き捨てるように言われた。「何という嫌な記録ばかりですか。それらは皇位獲得にかかわる陰謀と争いの連続ではないですか。このような物を役人や若い豪族たちに読ませるのは、有害です。焼き捨てるがいいわ」。人麿は恐る恐る申し上げた。「これらの物は、苦労して書き続けられた物ですので、中務省に返したいと思いますが」「それなら、そちは返すがよい。わたしから、中務省長官に焼却を命じることにする」。人麿はそのまま、引き下がる他はなかった。



■撰善言司(よきことえらぶつかさ)(紀元689年頃)
                      
 689年6月に、撰善言司を設置する、との勅令が゛発せられた。委員には事代主の子孫・伊予部馬飼や大学頭・調老人(つきのおきな)たちが、指名された。その役目は、「善言」という題名の説話集を作る仕事だった。史話を、良い教訓になる話に変えて書かせるのが、持統女帝の意図だったらしい。そして史話はマンガのように書き変えられた。撰善言司の委員たちが、つぶやいた。

「撰言の文書を読むと、良い話だから読むのは気楽だ。しかし、実話が嘘の話に変わっている。わたしは善言を読むと、学者としての良心が痛むよ」そう言って自分が書いた物を、自宅に隠す者が多かった。そのうちに、委員たちは書き渋った。仕事がはかどらないのを知り、持統女帝は撰善言司を解散させた。この仕事は、無駄だった訳ではない。かれらの書いた説話が、後で作られた古事記や日本書紀に入っている。


■歴史的物語
 
 だから古事記と日本書紀は完全な史書ではなく、神話と説話と例え話が、史話のなかに半分程度、混じっている。だから古事記と日本書紀は、図書館では史書の分類には入らず、「歴史的物語」の分類に属する。


■不比等の提案、持統女帝の意向

 和国が東洋の一流国と見なされるためには、国史をもつことが重要だと、不比等の息子・定恵が遣唐使で外国事情を学んだあと、父に話した。それで国史製作の必要性を、不比等は持統女帝に提案した。女帝は賛成したけれども、国史の中に前王朝を倒す権力闘争を書くことに反対した。

真実の歴史を書くには、王朝の交替とその因果関係を書く必要がある。それで、不比等も迷った。しかし女帝の意志が固いので、不比等は正確な歴史の作成を断念した。


そして万世一系方式を、提案した。すなわち王朝の交替を誤魔化す方式だった。前王朝打倒者を前王朝の血統者に書き変え、各王朝を連続して一王朝とする官史を書くことで、両者の意見は一致した。また韓国の壇君伝説を真似て、最初の王朝の始祖を神に祭り上げて、天孫降臨の話を作ることが決められた。



■こども向けの推薦図書


 さらにそのほか不比等は女帝から撰善方式を指示され、約束させられた。その結果、古事記と日本書紀は「撰善言史書」となった。「撰善言」だから、子ども向きの推薦図書には、適しているかもしれない。しかし「記紀」には史実と異なる箇所が多数、存在することになった。だからあらかじめ内容の詐為性を十分踏まえた上で接っしないと、とんでもないことになる。


こども向けなら「記紀」は許せるが、大人が間に受ける歴史の書ではないのである。しかし、書店の古代史コーナーには、「記紀」の記述をそのまま引用して古代史の解説をしてる本ばかりである。だから古代史は史実とかけ離れた話が通説になってしまった。

それは虚飾の歴史を基に、本当の歴史のごとくそのまま解説するのは詐偽の洗脳行為であり、有害になる。そういう本に加担する大人は学問的責任を負わなければならない。官史に書かれているからというのは言い訳にはならないのである。

日本の古代史学者は「記紀」研究者が多く占めており、「記紀」で神話になっていることは史実として認めない立場であり、また「記紀」に書かれていることを忠実に考えるのが研究の第一になっており、そのため「記紀」そのものの虚構性について疑うという考えが及ばないのである。


よって日本の古代史研究は進歩のない状態から一歩も抜け出せないのである。数年前に「古事記編纂1300年」というイベントがあったが、そのどれもが古事記を絶賛する内容だった。それは「記紀」の和歌はすべて人麿が書き、そのすばらしい和歌の影響が多分に影響してるかも知れない。

しかし、「撰善言」の虚構性は大人には耐えられない内容だ。まがりなりにも「古事記」、「日本書紀」は官史なので、それに異を訴えるという姿勢は史学界にはないので、日本の古代史は「撰善言」のマンガのような世界がそのまま放置されることになった。



■神話の国にされた「出雲王国」、スサノオ・ニニギノにされた徐福


 奈良時代に書かれた「記紀」は時の権力者が不都合な事は隠し、また史実としてでなく神話の形を借りて話を創作した。それにより日本の古代史(紀元前500年頃~紀元後300年頃)、歴史年表で言えば弥生時代に相当。その時代の古代史は「記紀」によりブラックホール化されてしまった。

現代人の古代史に関する常識も「記紀」が基になってしまった。「記紀」の最大の罪は、日本の源流・古代史そのものと言ってよい「出雲王国」のことを神話の話に変えて隠したこと。それは子孫が日本人の民族のルーツ・祖先を忘れる結果に繋った。もうひとつが、弥生時代の到来をもたらした古代最大の渡来集団である「徐福集団の渡来」の史実を同じように神話の話に変え隠したこと。

それは奈良時代の支配者であった貴族は、そのほとんどが、渡来人・徐福の子孫である物部氏や海部氏(尾張氏)と、それと旧出雲王家の事色主の血を継ぐ子孫であった。渡来系の子孫は、今さら900年前の出自・血筋・血統には、触れられくなかった。だから勝者の都合の良い官史には先祖が渡来人であったことは隠された。都の貴族にとって先祖が渡来人であったことは隠さなければならなかった。

だから先住日本人の・出雲王国を徐福の子孫(奈良時代の物部氏や海部氏(尾張氏)から見たら先祖にあたる)が滅ぼし、徐福の子孫がヤマトの大王(ヤマトの初代・海部王朝や、300年頃の物部王朝)になったことなど、奈良時代の支配者/貴族であった徐福の子孫である、物部氏や海部氏(尾張氏)にとっては不都合なことであり、隠したかった。先祖は天孫降臨したという設定が一番、都合がよかった。

先祖が渡来人の場合、あいまいなうやむやな話が一番、都合が良かった。例えばハワイ王朝がアメリカに滅ばされた史実は、勝者の歴史では単にハワイがアメリカの州になったとしか記されないのと同様である。だから「記紀」の虚飾については支配者の腫物に触ることに繋がるので、指摘するには命がけの覚悟が必要になる。

いずれにしても、この二つの重大な史実を「記紀」が隠したため、日本の古大史はすっぽり穴が開き、闇に葬られたままで、全く判然としないのである。さらに明治の王政復古によって「記紀」の虚飾性ついては、政府・国によっても正当化され利用された。また国民も熱風のごとく歓迎し、時代の背景もあったが、それは「記紀」の虚飾の虚構が影響を与えた部分も多少あり昭和の破滅に繋がった一面もある。


そして出雲王国は「神話の国」のまま放置にされた。日本の学者は官史「記紀」を鵜呑みにし、出雲王国は史実に基づかない絵空事として取り扱ってきた。それは平成の世でも明治以後の王政復古に伴う呪縛から解き放たれていない証左である。官史ということで疑いを持たないのが史学界の体質である。

そこには真実の探求という姿勢が感じられないのである。かぐや姫の作者の命がけの願いが全然わかっていないのである。そういう姿勢は昭和59(1984)年、世紀の大発見と騒がれた、「358本の銅剣」が見つかった神庭荒神谷遺跡から30年も経つのに、依然として出雲を語るときの枕詞は「神話の国」なのである。

その間、史学界は何をやっていたかと言うと相も変らぬ、邪馬台国論争・卑弥呼論争であった。これについては、巻末に説明しているので参照されたし。とにかく史学界の出雲への無視ははなはなだしいのである。いずれにしても、日本人は官史である「記紀」で、出雲神話の話が書かれたため、出雲はただ単に神話の話の舞台にされただけで、出雲王国が史実であったとは思わなくなった。

その結果が、日本人の起源は中国や半島から人が来て、それが日本人になったと漠然と思うようになった。そして大和に最初の政権(裏付けとして巨大な古墳)ができ、それが日本で最初の国造りと思うようになった。出雲王国を「記紀」が神話の話に変えた結果大和が日本の国造りの原点と思うようになった。

日本人は民族のルーツ・祖先を忘れることになったのである。徐福渡来のことは、各地に徐福の伝承があるため、徐福伝説という話を聞いたことがある位の認識になった。「記紀」の罪は日本の国の初期を隠したために、子孫は国の成り立ちを忘れてしまう結果を生んだ。

それは、日本人は民族のルーツ、国としてのルーツを忘れることに繋がった。また歴史=正史は、渡来人の光と影を隠した。それは稲作の伝来、文化向上で大きな役割を果たした渡来人の功績を歴史から消してしまった。奈良時代では書けなかった事情もあるかと思うが、今の時代であれば、ちゃんと中国人・秦人・ユダヤの子孫のかれらを評価すべきだと考える。



■渡来人が大活躍する古代社会

世紀以降、渡来人の流れが一変し、突如として大勢の民が朝鮮半島から海を渡り、シルクロードの最終地点となった日本に移住してきた。それまでも渡来人の流れは列島にむけて何百年も続いていたが、その流れが一気に加速した。

そして弥生時代後期から飛鳥、奈良時代にかけて、特に古代社会のメルティング・スポットとなった奈良盆地の周辺には多くの知識階級層の渡来人が居住するようになり、大陸文化の流入とともに栄えた。

当時の古代社会において政治や宗教、文学、農業など、日本の社会全般に多大な影響を与え、日本文化の基礎を培う原動力となったのは、渡来人にほかならない。

その後、渡来人は列島の文化に同化し、長い年月をかけて日本独自の文化を作り上げていくことに貢献するが、しかしながら、有力者の出自のほとんどが大陸系であることに変わりなく、その民族性と特異性については、新天地である日本の地においても長年、温存され、その氏名は歴史に名を残すこととなる。

例えば長岡京(現京都府)の周辺に居住していた秦氏、弥坂氏、鴨氏、出雲氏などの多くは、渡来系であることが知られている。これらの有力者の経済力と高い教養のレベルは渡来人ならではのものであり、その名前の多くがヘブライ語の意味を持っていることからしても、渡来系の中には単に中国や朝鮮半島との繋がりだけでなく、ユダヤ系の民も複数存在していたと思われる。

中でも山背国で実権を握り、平安京遷都の立役者として活躍した秦氏とユダヤの関係についての噂は絶えない。秦氏はその財力と大陸文化に繋がる人脈故に、平安京遷都の際には所有する財産や不動産を献上し、桓武天皇の信任を得ながら朝廷にとって大きな経済的支えとなった。

また、それ以前、平城京から長岡京への遷都においても、それを指揮した藤原種継の母親も秦氏であり、一連の遷都の背景には当初から多くの秦氏の影響が強く加わっていたと考えられる。

秦氏のほかにも奈良時代後期から平安初期にかけて、注目すべき渡来系人が、多数浮かび上がっている。まず桓武天皇の母親は、今生天皇の「ゆかり」発言にもあったように、高野新笠という百済の出であり、父方の和氏は武帝王由来の百済の王族だ。

また、延暦寺を建立し、桓武天皇に仕えた最澄は、後漢の孝献帝の子孫を祖先とする三津首家(みつのおび)の家柄であり、中国系の渡来人の子孫、そして空海自身も、母方の阿刀氏が帰化人であった。

空海の伯父にあたる阿刀大足(あとのおおたり)は、その優れた教養と知識が朝廷でも高く評価され、桓武天皇の皇子、伊予親王の侍講を勤めていたほどだった。

その阿刀大足がおそらく中国で学んだと考えられる論語、孝経、史伝を中心とした多くの知識を、幼い空海に自ら授けた。こうして古代社会においては、至るところで渡来系の人物が大和朝廷に大きな影響力を与え、日本の文化の礎を作る大きな原動力となっていたのである。




■大彦(ナガスネヒコ)→阿倍→安倍(「日の本」国を名乗る)→安東

 
鳥取県米子市に安倍という地名がある。なぜ安倍という地名になったかと言うと、安倍という家が、多かったので、その地名がついた。なぜ安倍家が多かったのか。それは先祖が粟嶋神社にまつられているからだった。

子孫は先祖の地に心ひかれて、どうしても住みたくなるということで子孫の安倍家が集まり、安倍という地名になった。それは1062年の前九年合戦で敗れた安倍一族が船で、この地に逃れた、ことにさかのぼる。その粟嶋神社に祭られている先祖とは、出雲王国の有名な第八代スクナヒコの事代主(個人名・八重波津身・やえなつみ)通称エビスさんとして、親しまれている御方だ。

紀元後180年頃のヤマト磯城王朝第八代クニクル大王(孝元)の御子で、実質のヤマトの指導者は大彦(個人名・ナガスネヒコ・ナーガ竜神、スネヒコはスネークに通じる)、尚、大彦とは大兄(おおえ)に相当する呼称である。、安倍家の直接の祖先に当たるが、大彦・ナガスネヒコは事代主の血を引き継いでいた。紀元後180年頃にヤマトに攻めてきた第一次物部勢と戦ったのが大彦であった。

劣勢になり、琵琶湖の東岸に逃れた。なおも攻撃された大彦・ナガスネヒコは、出雲の向王家に来訪して加勢を求めた、と伝承されている。3世紀に日向にいる物部政権が出雲を攻めるという噂があったので、向家は大彦・ナガスネヒコを助ける余力はないと、断った。

そのときまで、富家を名乗っていた大彦・ナガスネヒコに、以後は富家を名乗らないように通告した。摂津国三島(大阪府高槻市)に事代主の領地があった。そこの山、(阿武山)の名をとって、大彦・ナガスネヒコは以後、阿武(あべ)家を名乗ることになった。いわゆるナガスネヒコ王国は、その後も物部王国に追われて、都を駿河の安倍川付近に移した。

ナガスネヒコ王が亡くなった後では、王家は安倍家を名乗り、クナト国を名乗った(因みにクナト大神に由来する)。三島の人々はナガスネ王家を守るために、駿河国まで付いて行き、伊豆半島の入口に三島の町を造った。そこに三島大社を建て、事代主をまつった。

阿武山は古代は重要な神山で、今城塚古墳はその山に向けて造られた。物部勢は安倍王国の征服に向かい、焼津や日本平の戦いなどで勝ち進んだ。安倍勢は船で常陸(ひたち)国に移り、鹿島を都とし、そこに鹿島神宮を建て雷(出雲竜神の化神)を祀った。中臣氏率いる軍勢が西から攻め神宮を奪った。そして、そこの祭神タケミカヅを奪って自家の氏神に加えた。

先に述べたように、出雲族はインドの太陽神スーリアの信仰を受け継ぎ、大和に移住した後も三輪山の日の出を拝んだ。旧大和王国のナガスネ王一族と従う人々も、同じく太陽信仰を持っていた。それで、住み着いた常陸国を「日立ちの国」と呼んだ。それは「太陽の昇る国」の意味だった。

「常陸国風土記逸文」に、鹿島の西方の「信太群の地は本、日高見(ひだかみ)国なり」と記されている。また駿河の安倍川の東にある日本平の「日本」は、「日の元の国」の意味で安倍王が名付けた地名かも知れない。その後、安部王国は宮殿を睦前国や睦中国へと移した。

そして、国名を日高見国と称した。今の北上川の名前は元は、「日高見川」だったらしい。その流域に、鳥海柵や厨川柵(盛岡市)などの防衛基地の遺跡が残っている。ナガスネ王国が日高見国と名乗ったから、日本書紀の景行期27に「東の夷の中に、日高見あり」と書かれた。日高見国はその後、「日之元津国」とか、「日本之(ひのもとの)国」と名乗った。

「旧唐書」(倭国日本国の条)に次の記事がある。「日本国は倭国の別種なり。その国は(あさ)日の辺にある故に、日本を名とする。倭国はその名が上品でないと自ら嫌い、改めて日本に変えた。あるいは言う。日本は古くは小国で、倭国と並立していた」この日本国は倭国とは別の国名で、独自の貿易を行っていた。

この貿易の続行による輸入品は、後の平泉文化にも入っている。だから、この史書に書かれたように、日本列島には二つの独立国があったことは、外国には広く知られていた。そして「日本(ひのもと)」の国名は、東北の日高見国が先に使ったものだった。北にあった日本国の記念碑が、青森県東北町に残っている。

場所が移動したので、元あった位置「石文」の地名から陸羽街道(国道4号線)をはさんで反対側の千曳神社近辺にある。その南が「坪」の地名で坪川が流れている。その石文には、浅い彫りで「日本中央」と書かれている。浅い彫りであることが、彫る技術が未発達な古い時代に造られたことを示している。

この石文は東国の王・安倍致東が建立したと伝えられている。伝承によると安倍政権には、アイヌ代表も加わっていたと言う。ということは、日本国はアイヌが住む渡り鳥(北海道)や樺太も領土にしていたことになる。だから坪の石文が建てられた時は、その場所が安倍王国すなわち、日本国の中央であったことは、誇張でないことがわかる。

その後、倭国は日本国の名を使ったから、大和政権の記事は「新唐書」では「東夷伝の日本の条」に書かれた。それに関することが、若狭国の羽賀寺(小浜市国富)に残された記録だ。それにナガスネ王の子孫・安倍(安東)康季公がその寺の伽藍を再興した際のもので、「奥州十三之港の日本の将軍」と1435年に名乗っている。この文は安倍氏の東北王国が日本国を名乗った後に、倭国が勝ってに日本の名を使ったことを示している。

東北地方を領国とした安倍王は、都を津軽半島に定めた。亀岡(木造町)はアラハバキ(出雲と同じ竜神木信仰)の聖地とされて、王国各地より、代表が祭りに参列したと言う。その際に祭壇に目閉じ女神像が立てて拝まれたらしい。平安時代の末には、安倍王家の一部は奥六群に中心を移した。

そこに源氏の軍勢が進出し、政府の指示なしに、私闘を繰り広げた。それがいわゆる前九年合戦だった。これに敗れた安倍王家は領土を狭めた。安倍家は鎌倉時代には安東氏を称するようになった。当時はアイヌが住む北海道も支配していたから、自分の家系が東国の将軍だと自負したのは当然だったと考えられる。

後の中心地は、津軽の十三港(とさみなと)近辺だった。そこは初めはトミの港と呼ばれたが、後にはトサと呼ばれた。近年、安東勢力の根拠地跡が発掘された。その場所は津軽半島の西海岸にあり、岩木川が海にそそぐ所だった。十三湖の日本海側に二本の長い砂州が防波堤のように伸びている。

その内潟の明神沼の入口に護岸施設と桟橋がある港湾施設(青森県市浦村)が見つかった。安東氏の館と家臣団屋敷を掘と土塁で守る形になっている。掘の外側には町屋や寺院跡があった。この十三港と町は出土遺物から鎌倉時代初期に出現したことがわかった。

1968年に函館空港の近くに、中世の志苔館遺跡が発掘された。そこから、銅銭が37万4千枚以上見つかった。日本列島での埋納銭としては、最多数だった。これは安東一族が埋めた可能性が大きい。安東氏は鎌倉時代後期に、北条執権政府の支配下に入った。それ以前は独立していたから、古代から続いた安倍王国はこの時、終了したと言える。その後、文永と弘安年間の二回にわたり蒙古軍船の大襲来があった。

二回とも神風が同じ場所に来て、蒙古軍船は全滅したという奇妙な話が流された。しかし、実際は執権政府の要求に応えて、津軽の安東水軍等が海上で懸命なゲリラ戦を繰り広げ、蒙古船を追い払った、と古老は伝える。羽後国で湧き出る重油を樽に入れ積んだ安東船は、夜陰にまぎれて蒙古船に近づき、重油をつけた松明に火をつけて敵船に投げ入れた。多くの敵船は燃えた。

前九年合戦で敗れた安倍宗任は肥前松浦に移って、松浦姓を名乗り一族は松浦党という水軍となった。かれらも蒙古軍船撃退のために活躍した。残った蒙古の軍船は逃げ帰ったという。鎌倉幕府は恩賞を与えることを嫌い、安東水軍の活躍を無視したという。蒙古船の一部は安東船を追って津軽まで進み上陸した。しかし、蒙古兵は安東氏の指揮する軍勢に打ち滅ばされた。

その蒙古兵のことが、今も津軽の子守唄に歌われている。松浦党の一部はその後、先祖ゆかりの地・出雲に移り住んだという。その後も安東水軍による海外貿易は続いたが、1341年(南北朝時代)の大津波が、十三港襲い町も滅んで、安東家(安倍家)は衰退した。

日本の名門・安倍家は時の政権から異民族でないのに蝦夷扱いされ、出雲王国と同様に勝者の歴史=正史から、葬られた。大彦は二世紀末の指導者だったが、「記紀」では紀元前二世紀の豪族にかえられ、神武天皇の敵にされた。たしかに大彦は、徹底した物部嫌いであった。



終わり








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/>大空に突如出現する巨大な宇宙船団という超越的なイメージは、先例があったらしいが(たとえばアメリカの作家シオドア・スタージョンには47年に「空は船でいっぱい」というそのものズバリのタイトルの短編がある)、やはり本書をもって嚆矢(こうし)とされ、映画『インデペンデンス・デイ』(96年)をはじめ、さまざまな作品で変奏される、SFというジャンルにとっての、いわば原型的なシーンである。<br /><br />また、本作で提示される人類進化のヴィジョンは、驚くほどに現在でもアクチュアルな思弁性を湛えている。時代を超えた普遍性を有した作品なので、半世紀以上昔の作品だろうと不安に思っている読者の方がいれば、安心して手に取っていただきたい。<br /><br /><br /> しかし、そんな『地球幼年期の終わり』は、なかなか完成まで時間のかかった作品だったらしい。<br /><br /><br /> 1946年、クラークは中編「守護天使」を執筆。〈アスタウンディング〉誌に投稿したが拒否され、改稿を重ねてようやく50年に〈フェイマス・ファンタスティック・ミステリーズ〉誌に掲載される。<br /><br />そしてこの中編をほぼそのまま第一部として組み込んだ三部構成の長編小説を構想し、何度かの改稿の末、ようやく53年に発表したものが本書である。<br /><br /><br /> 当時の世界情勢は、第二次世界大戦が終結し、アメリカ合衆国といまはなきソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が、覇を競って激しく対立していた。<br /><br />互いに核兵器を持ち、第三次世界大戦は世界の終わりを意味していると誰もが考えており、「冷戦」と呼ばれる膠着状態に陥って、宇宙開発競争がまるで戦争の代用のように激化していたのである。<br /><br />米ソの対立は89年のソ連解体で終わりを告げ、本作のプロローグはいくらか前提が変わってしまった。<br /><br />それを意識してか、90年に刊行された新版ではプロローグを削除し、21世紀に入り、6カ国共同の火星探査ミッションに出発する直前と設定を変更した上で第一部に組み込んでいる(註1)。<br /><br />とはいえ、変更点はほぼそれだけで、他の部分はまったく旧版と変わっていない。また、その後2001年に出た版ではふたたび元通りのヴァージョンで刊行されたということだから、作者自身これはこのままでいいと判断したのかもしれない。<br /><br />実際、冷戦という歴史的な知識さえあれば、旧ヴァージョンでまったく問題ない、というよりもむしろ全体のバランスからいえば、旧ヴァージョンのほうが世界の破滅を意識した時代を反映した心性が読み取れる分、物語に説得力が増すように思われるのだ。<br /> もちろん、この小説は読んで単純に面白いものである。<br /><br /><br /><br /> たとえば第一部のミステリ的な展開、とくに姿を見せない異星人カレレンを一目見ようと登場人物たちが試みる方法のいかにも技術者的な記述や、第二部で描かれる南の島の海や潜水艇による海洋探査の場面、聖書のイメージを意外性のあるアイディアで転倒させるユーモア感覚や、もちろん第三部での壮大な人類進化のヴィジョンを、まずは入り組んだ伏線を駆使して明らかにしていき、クライマックスでは科学的考証に支えられた緻密さで描写し切ってしまう強靭な想像力など、クラークの持つ多様な魅力が縦横に発揮されていて、まさにマスタピースというに相応しい。<br /><br /><br /> また、この「人類進化のヴィジョン」の構造が、非常にクラークという作家の特徴を現していて面白い。内容的には神秘主義あるいはオカルト的と言っていい展開になっているのに、あえてわざわざ誰かによって見られている場面を設定し、前述したように科学的考証に裏付けられた視覚的描写で記述している。「SFは絵だ」という野田昌宏(のだまさひろ)の名言があるが、まさにクラーク作品の真骨頂は、このような「風景」の描写にある。<br /><br /><br /> 英文学者の高山宏(たかやまひろし)は、18世紀から19世紀にかけて栄華を誇ったロマン派を準備したものとして、ニュートンの光学による「描写」の問題化と、18世紀に外交問題が解決し、大量のイギリス人がヨーロッパ大陸へと旅した「グランド・ツアー」と呼ばれる現象によって、「風景」を発見したことを挙げている(註2)。<br /><br />「風景 landscape」とは、ただ目に入るものではなく、観念的なバイアスのかかった世界の「像」である。この「像」の捉え方のモデルとなるのが絵画であり、「美学」が成立する。一般にロマン派は、近代科学がもたらした理性偏重や合理主義に対し、感受性や主観を重んじて「自然に帰れ」というスローガンを謳ったとして知られているが、まさにそこで前提された「自然」こそ、自然科学のバイアスのかかった観念的な人工物なのである。そしてSFは、そのような精神風土の中で、メアリ・シェリーやエドガー・アラン・ポオを始祖として生まれた文芸ジャンルであった。<img src="https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/r/o/m/romigo/yjimage.jpg"align=right><br /><br /><br /><br /> クラークが、神秘主義に接近するような人類進化のヴィジョンを、なぜ緻密な科学的考証に裏付けされた描写で、読者に「見せる」のか。それは、そのような「風景」こそが、SFというジャンルにあらかじめ埋め込まれた、近代以後の文学・芸術の言説における、ある観念史的パースペクティヴを背負った欲望だからなのである。<br /><br /> さて、新しい読者のために、作者について少し詳しく紹介しよう(註3)。<br /> 1917年、イングランド西部サマセット州の港町マインヘッドに、四人兄弟の長男として生まれる。父親は郵便局の電気通信技師だったが、第一次世界大戦に従軍し、帰還後に同州の内陸部の小さな村ビショップズ・ライデアードで農園をはじめたため転居。その父親にプレゼントされた煙草の景品のカードに描かれたステゴサウルスに魅了され、古生物学に興味を持ち、化石収集をはじめる。<br /><br />27年に小学校を卒業し、州都トーントンのグラマー・スクールに進学。この学校で天文学を知り、自作の望遠鏡で天体観測に熱中。そして30年、学校の勉強部屋で偶然アメリカのSF雑誌〈アスタウンディング〉誌を見つけ、たちまち熱狂的なSFファンになった。雑誌のコレクションをはじめ、その文通欄でイギリスだけではなくアメリカにも友好の輪がひろがっていく。<br /><br />また何よりこの30年の夏は、マインヘッドの公立図書館でオラフ・ステープルドンの『最後にして最初の人類』(30年)を読んで大きな衝撃を受けた。20億年にわたる巨大なスケールの未来史であり、世界戦争や火星人襲来、ウィルスによる絶滅、太陽系の惑星への移住といった波瀾万丈の事件の中で、テレパシーを獲得したり身体が小型化したり巨大化したりと、どんどん変容していく人類の姿を描いた、高度に哲学的・瞑想的な幻想叙事詩というべき作品である。<br /><br />クラークの世界観を大きく変えたというこの作品からの影響の痕は、とくに本作『地球幼年期の終わり』にも顕著に見られるので、本書が面白かった人は探して読んでみるといいだろう。<br /><br /><br /><br /> さて、34年には前年に創設されたばかりの英国惑星間協会に参加、自作のロケットによる発射実験を行うなど活発に活動(のちには会長も務めた)。またすでに創作にも手を染めていて、SFファン仲間のあいだで、その個性から「エゴ」というニックネームで呼ばれるようになる。<br /><br />36年には優秀な成績で公務員試験に合格、グラマー・スクール卒業後はロンドンで大蔵省に勤めた。第二次世界大戦がはじまると、徴兵に先んじて空軍に志願入隊。将校としてレーダーの開発に携わる。45年に有名な人工衛星による電気通信システムを考案、このとき「地球外電波通信」すなわち衛星放送のアイディアを公表しており、後年、特許を取っていれば大金持ちになっていたとユーモアを交えて語った。<br /><br /><br /> 46年、〈アスタウンディング〉4月号に短編「抜け穴」を発表しSF作家として商業誌デビュー。同年除隊し、ロンドン大学のキングス・カレッジに入学、物理学と数学を修めた。卒業後の48年、長編『銀河帝国の崩壊』が雑誌に掲載。宇宙からの侵略者に敗れた人類が引きこもった閉鎖都市で、不死を実現し未曾有の繁栄を築いた遠未来。<br /><br />その退屈な楽園にあきたらず外部を目指す少年の冒険を描いた、『地球幼年期の終わり』にも通じる壮大なスケールの作品である。50年には、はじめての書籍であるノンフィクション『惑星へ飛ぶ』を刊行。好評を得て、テレビの科学啓蒙番組にも出演する。<br /><br />以後もノンフィクションはクラークの仕事の大きな柱となり、テレビ番組への出演もあって、英米ではむしろ科学解説者としての認知の方が大きいとさえ言われることもあった。実際クラークの宇宙開発事業とその啓蒙にかける情熱は生涯にわたって決して衰えることはなかった。<br /><br /> また、この頃英国惑星間協会のたまり場だった酒場で、50年代の後半から一緒にダイビング関連のベンチャーを起業し、生涯のビジネス・パートナーとなる水中カメラマンのマイク・ウィルスンと出会う。ウィルスンはクラークにスキューバ・ダイビングの面白さを教え、クラークと海との身体的な交歓もまた生涯にわたって続くこととなった。<br /><br /><br /><br /> 51年、人類初の月面着陸計画を描いた長編『宇宙への序曲』を刊行。SFとして最初の著作となるこの作品は、緻密な科学的考証に基づいて執筆されたハードSFで、アポロ計画の21年近く前に書かれたものでありながら、そのディティールの確かさに支えられた詩情はいまも色あせない傑作である。<br /><br />前述した『銀河帝国の崩壊』のような、遠未来を舞台にした、壮大なスケールで大胆なヴィジョンを提示する、ときには思弁的でもある作品の系列と、『宇宙への序曲』からはじまる、技術者としての経験とそこで育まれた論理性に裏打ちされた、広範囲の科学知識を応用した近未来ハードSFの系列は、クラークの作品を特徴づける車の両輪のようなものだが、それらがデビューの頃からほぼ完成されたかたちで備わっていたと見ることができるのが興味深い。<br /><br /><br /><br /> さて同年に刊行されたノンフィクション『宇宙の探険』は国際幻想文学賞ノンフィクション部門を受賞。続いてハードな火星SFの嚆矢となる長編『火星の砂』も刊行した。翌52年にはじめてアメリカを訪問。世界SF大会に参加するなど、多くのSF作家、関係者と親交を結ぶ。そして53年、本書『地球幼年期の終わり』を刊行。<br /><br />発表2ヶ月で21万部を超えるベストセラーとなり、批評家からも好評を得た。ことにかねてより親交のあったイギリスの文学者C・S・ルイスは、ジャンルを超えた傑作として絶賛した。同年、二度目のアメリカ訪問で知り合った女性と電撃結婚。<br /><br />そのままイギリスへと連れ帰るが、ほどなくして結婚生活は破綻をきたし、翌54年には別居生活に入る(正式に離婚が成立するのは64年)。傷心の彼を慰めたのもまたフロリダの海でのダイビングであった。<br /><br /><br /> 55年の短編「星」が、ヒューゴー賞短編部門を受賞。56年からほとんどダイビングを目的としてスリランカ(当時はセイロン)に移住。この年にはまた、実質的な処女長編である『銀河帝国の崩壊』を全面改稿した『都市と星』を刊行。<br /><br /><br />クラーク自身は出来栄えに満足だったが、かつてのジュブナイルの雰囲気が濃厚だった作品のファンも多く、そのままどちらの作品も同時に書店に並び続け、さらに後年、『銀河帝国の崩壊』をそのまま第一部として組み込んだグレゴリイ・ベンフォードとの共作『悠久の銀河帝国』が刊行されるなど、複雑で数奇な運命をたどることとなった。<br /><br /><br /> 57年、長年にわたる海への憧憬を具現化した長編『海底牧場』が刊行。以後、海洋SFもクラークの重要なレパートリーとなる。<br /> 62年、体調を崩し、のちにポリオに感染したと判明する。ユネスコのカリンガ賞を受賞。科学エッセイ集『未来のプロフィル』刊行。<br /><br />数々の未来技術に関する予言・名言が収録されており、大きな話題を呼んだ。ことに同書で定式化されたクラークの三法則。<br /><br /> 第一法則  著名だが年配の科学者が、なにごとかが可能だと言えば、それはまずまちがいなく正しい。しかし彼が不可能だと言えば、たいていの場合は間違っている。<br /> 第二法則  可能性の限界を知る唯一の方法は、それを越えて不可能の段階に入ることである。<br /> 第三法則  充分に進歩した科学は、魔法と区別がつかない。 (山高昭(やまたかあきら)訳)<br /><br /> ことに第三法則はいまも多くの人が引用する名言だろう。<br /><br /><br /><br /> 64年、アメリカの映画監督スタンリー・キューブリックからSF映画への協力を要請され、最初はすでにあった短編「前哨」をベースに制作される予定だったが、紆余曲折あって映画制作と原作の新作長編小説の執筆が同時進行することになる。そしてついに六八年、映画『2001年宇宙の旅』が封切り、続いて同タイトルの小説版も刊行された。<br /><br />それまでのSF映画のイメージを一新する映画版は、わかりやすい説明を一切省いた前衛的な映像美で「人類の進化と異星人の文明」という哲学的でもあるテーマを描くというコンセプトで賛否両論を巻き起こし、再上映を経て評価がぐんぐん高まって映画史上の傑作と遇されるようになったが、クラークの思惑とはまったく違った作品であった。<br /><br /><br />とはいえ、小説版ではすべての場面に明快な説明がつき、のびのびと描かれていて、のちに年月をおいて続編が次々に書かれていったようにクラークのライフ・ワーク的作品となる。<br /><br />また映画のヒットとこれまでの科学解説者としてのキャリアへの信頼も手伝ってか、ちょうど目前に差し迫っていた人類初の月面着陸を迎えるにあたってメディアに重用されるようになり、とくにテレビを通じてその知名度はどんどん大きくなっていった。70年には日本で開催された国際SFシンポジウムに参加。大阪万博を見学し、小松左京と対談した。<br /><br /><br /> 73年に発表した5年ぶりの長編『宇宙のランデヴー』は、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ジョン・W・キャンベル記念賞、ジュピター賞、ローカス賞、英国SF協会賞を受賞。全長50キロ、直径20キロ、自転周期四分で内部が空洞になった巨大な円筒形物体〈ラーマ〉が、毎時10万キロ以上のスピードで太陽系をおとずれた。<br /><br />それにランデヴーし内部を探検するが、なにひとつ謎は解けないままに近日点に近づいて探検隊は撤収し、〈ラーマ〉はただ去っていくだけという物語。まったくシンプルで、しかしそれ以上何を求めると言うのかと反問したくなるような傑作である。<br /><br />79年には、スリランカを舞台に軌道エレベーターを建設する人々を描いた長編『楽園の泉』を発表。『宇宙のランデブー』に続いてヒューゴー、ネビュラのダブルクラウンに輝いた。クラークの技術系SFのおよそ集大成と呼べるような作品であり、またスリランカでの生活に取材したいきいきした細部も豊かな、やはりこれも大傑作だ。そしてここでクラークは一度SF創作の筆を擱(お)こうと決意したという。<br /><br /><br />しかしエージェントが『2001年宇宙の旅』の続編を書くことを熱心に勧め、またコンピューターを導入したことによって執筆の意欲が再燃。八二年に『2010年宇宙の旅』が刊行され、その後もシリーズは『2061年宇宙の旅』(89年)『3001年終局への旅』(97年)と続いた。<br /><br /> 86年にはふたたび危機的な体調不良に襲われ、それが過去に感染したポリオによるものとついに判明、最終的には車椅子生活を余儀なくされることとなる。過酷な闘病を続けながら、中編を長編化した『遥かなる地球の歌』(86年)や、タイタニック引き上げの物語『グランド・バンクスの幻影』(90年)などの長編を発表するが、しだいに後輩のハードSF作家であるグレゴリイ・ベンフォードやスティーブン・バクスターなどとの共作が創作の中心となっていく。<br /><br /><br /> 98年にエリザベス女王からナイトの称号を叙勲、またノーベル平和賞にノミネートされるなど、晩年はさまざまな栄誉に輝き、2008年にスリランカのコロンボ市内の病院で呼吸不全のため死去した。遺作となったのは同年に完成し、死後刊行されたフレデリック・ポールとの共作『最終定理』だった。享年90。<br /><br /><br /> その名を冠した賞はいくつもあり、SFでは89年からはじまる、前年にイギリスで初刊行された作品からもっとも優れた長編小説に授与される「アーサー・C・クラーク賞」のほか、83年に設立されたアーサー・C・クラーク財団が運営する、クラークの価値や業績を”具体的に立証した”人物や団体に与えられる「アーサー・C・クラーク生涯功労賞」(2002年〜)、衛星通信分野での業績に対しての「アーサー・C・クラーク発明家賞」(〇三年〜)、また財団とは関係のないところでも、05年には宇宙探査に貢献のあった英国の個人・団体などに贈られる「サー・アーサー・C・クラーク賞」などが設立されている。<br /><br />これらの賞の多くは、クラークの作品(想像力)が、単に文学・SF関係者のみならず、科学・技術者たちにもよく理解され、愛されていることを示しているだろう。<br /><br /> ふりかえってみれば、つねに最新の科学知識によってアップデートされていったとはいえ、クラークの作品はそのスタイルと思想がつねにほぼ一貫していたように思える。争いごとが嫌いで、自作ではほとんど暴力的なシーンを描いたことがないと語るクラークは、つねに確信を持ってみずからがしたいと思ったことだけを着実に実行してきた、非常に稀な幸福なSF作家なのである。<br /><br /> 今年2017年はクラークの生誕百周年にあたり、そのような記念すべき年に『地球幼年期の終わり』の新版が刊行されるのを言祝ぎたい。<br /><br /><br /> (註1)90年の改稿版は、光文社古典新訳文庫から『幼年期の終わり』(池田真紀子(いけだまきこ)訳、2007年)として刊行されている。<br /> (註2)高山宏『近代文化史入門 英文学講義』(講談社学術文庫、2007年)<br /> (註3)クラークの伝記的記述は、クラーク自身の自伝的エッセイ『楽園の日々』(山高昭訳、ハヤカワ文庫SF、2008年)と、牧眞司(まきしんじ)氏作成の詳細な年譜(『ザ・ベスト・オブ・アーサー・C・クラーク 1〜3』中村融(なかむらとおる)編、ハヤカワ文庫SF、2009年)を参考にさせていただきました。<br /><br /><br /><br /><font color="#00ff00"><br /><strong>■ 渡邊利道(わたなべ・としみち)</strong><br />1969年生まれ。作家・評論家。2011年、「独身者たちの宴 上田早夕里『華竜の宮』論」で第7回日本SF評論賞優秀賞を受賞。2012年、「エヌ氏」で第3回創元SF短編賞飛浩隆賞を受賞。</font><br /><br /><br /><br /><center><br /><font size=6 color="#ff0055"><strong>Another Notes</strong></font><br /><br /><font color="#00ffff" size="6" face="MS P明朝"><br /><strong>地球幼年期の終わりに </strong></font></center><br /><br /><br /><br /><br /><strong>第一部 地球と <上主> たちと</strong><br /><br /><br /> 米ソの宇宙開発戦争が過熱していた時代。ある日突然、はるか上空から <上主> (Overlord) が現れ、地球は彼らに支配されました。しかしそれは、人類が何らかの物理的被害を受けたからではなく、<上主> の圧倒的な知性と科学技術の前に、自らが到底及ばないことを理解したからです。<br /><br />こうして、むしろ彼らの登場によって、地球はかつてなく平和な時代を迎えたのです。しかし解せないのは、<上主> の目的でした。一度たりともその姿を現さず、ただ空に浮かぶ宇宙船から監視するのみ。地球総督のカレレン (注: 旧版では「カレルレン」) は、国連事務総長のストルムグレンを通じてのみやりとりを行い、地球を統治していました。<br /><br />やがて自由連盟やストルムグレンの要望に対して二世代後―― 50 年ののちに姿を見せる約束をします。<br /><br /><br /><br /><strong>第二部 黄金時代</strong><br /><br /><br /> 50 年後。<上主> は約束通り地上に現れました。その姿は紛れもなく悪魔そのもの――。しかしそれまでの <上主> の慎重な準備によって、人類は彼らに対する恐れを抱かなくなっていました。その後は「黄金時代」と呼ばれる、人類史上最大限の平和かつ幸福の時代が訪れることになります。<br /><br /><br /> ある日、ルパート・ボイスのパーティーで奇妙な出来事が起こりました。いわゆる「こっくりさん」のようなゲームで、ジャンが <上主> の棲む星の太陽の名前を問うと、驚くべきことにその回答を得ることができたのです。後に調べると、その恒星が実在すること、それは彼が知り得る少ない <上主> の情報と一致していることがわかりました。<br /><br />かねてより宇宙航空に興味があり、また、<上主> の登場により人類の宇宙進出の道が閉ざされたことに不満を覚えていたジャンは、深海の研究者サリヴァン教授にかけあい、<上主> の棲む星への密航を企てます。<上主> の船に乗り込むことに成功した彼は、往復四ヶ月の――地球の時間に当てはめると 80 年にも及ぶ――長旅を始めるのです。<br /><br /><br /><br /><strong>第三部 最後の世代</strong><br /><br /><br /> ジョージとジーン夫妻は、<上主> の統治の中で失われつつあった人間の創造性を守ろうとする人々が集う「新アテネ」へと移住を決めます。ある日、息子のジェフリーが奇妙な夢をみるようになりました。<br /><br />それはどこか遠くの星の情景――、およそ彼が知る言葉では表現できないような、色彩豊かな、数々の鮮明な映像でした。ジョージは <上主> の一人、ラシャヴェラクから、ジェフリーの身に何が起こっているのか聞かされます――彼はもう、人類ではない――。そう、ホモ・サピエンスは次の世代へ移行するのです。<br /><br />人々は <上主> を主人だと考えていました。しかし、実際は <上主> の上には <主上心> (Overmind) という、さらにそれを支配する存在があり、<上主> は与えられた義務を遂行しているに過ぎなかったのです。<br /><br />すなわち、新世代の誕生を補佐する、いわば助産婦の役割を。<上主> は、優れた能力を持っていましたが、進化の袋小路に入っていました。彼らには子供ができない、未来がなかったのです。<br /><br /> ジェフリーは夢と日常との区別を失いました。それと同時に科学の理解を超えた超能力を手にし、引き換えに人間らしさは消えていきます。そして、やがて全ての地球上の子供たち全員に、この「変身」が伝染したのです。<br /><br /><br />それは、文明の終末――人間としての未来は完全に喪失されてしまったことを意味するのでした。カレレンは最後の演説で、全てを明かしました。<主上心> は数多くの生物種族の総合体であり、新世代もその一部となるだろうと。<上主> は新世代の子供たちを保護し、疎開させる必要がありました。<br /><br /><br />さて、残された人類は? カレレンは何も手を下さず、判断を人類に委ねました。そして、最後にこうも言ったのです。新しい世代、その「生みの親」である人類のことを「永遠にうらやむ」と。<br /><br /><br /> やがてジャンが遥か <上主> の星から帰還した頃には、人類は彼一人きりになっていました。しばらくは地球の裏側で鳴りを潜めていた新世代たちでしたが、ついにその時がきます。「彼ら」は活動を再開し、カレレンたち <上主> は地球を去ることにしました。<br /><br />唯一地球に残ったジャンは、光とともに一つの名状しがたい存在へと変容していく「彼ら」の姿を、そして、地球の終わりの瞬間を、今まさに離れゆく <上主> の船に向かって実況し――カレレンは、消えたモニターの前で全ての任務の完了を確認しました。<br /><br />カレレンは、人類のような進化の潜在能力を持たず、<主上心> のしもべに徹する己の種族への悲しみと、それでも <主上心> に魂まで奪われまいとする反抗心を胸に、人類に別れを告げるのでした。<br /><br /><br /><br /><br /><center><font size=6 color="#ff0055"><strong>Another seeds </strong><font size=4> ( 五島 勉 )</font></font></center><br /><br /><br /><br />ヒトラーの予知した人類究極の姿は、オーウェルよりもむしろ、もう1つのSFの傑作、『地球幼年期の終わり』に、とても近いと感じる。『地球幼年期の終わり』は、『2001年宇宙の旅』の鬼才作家アーサー・C・クラークが書いた、SFファンなら誰でも知っている、世界SFのベストテンに文句なく入る傑作だ。<br /> <br /><img src="https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/r/o/m/romigo/clarke.jpg"><br /><br /><br /><center><br /><strong>アーサー・C・クラークが書いた</strong><br /><font color="#00ff00" size="5" face="MS P明朝"><strong>『地球幼年期の終わり』</strong></font></center><br /> <br /><br />このアーリア系イギリス人の小説の内容をかいつまんで言えば、米ソが元ナチスの協力で宇宙競争にしのぎを削っている近未来、別の銀河系から、突然、神そのもののような超知能生物たちが宇宙船に乗って地球にやって来る。<br /><br />ところが彼らの姿は、なんと人類が昔から想像してきた、長い耳に長いシッポ、口が耳まで裂けた「悪魔」そっくり。この怪異な超高等生物が、なぜか地球人類にたいへん好意を持ってくれる。災害や汚染や自然破壊など危機を切り抜ける道を教え、科学や社会の進歩を手伝ってくれる。<br /><br /><br />すると人類は、そうされているうち、次の世代あたりから急に恐ろしい変身をはじめる。体だけは今の人類のまま。しかし意識の中身というか心の本質が変わる。体は依然一人ずつ分かれて独立しているのに、心の働きの上で、「個人」というものがなくなってしまう。<br /><br />一人ひとりが1個ずつの細胞のようになり、ついには人類の若い世代、ぜんぶが、数億人の個体に分かれた1つの心の巨大生物になっていく。1匹ずつでは自分が何者かわからないアリやハチが、全体としては「種を繁栄させよう、進化させよう」という共通目的に向かって進むように。<br /><br />しかも、この新人類の場合、最終目的はついに明かされない。ただ全員で宇宙の果てをじっと見つめ、1つの巨大生物として何かをはじめようとするだけだ。それを見て、「悪魔」そっくりの姿の宇宙から来た神々は、これで地球人類もやっと新しい成長期に入った。<br /><br />われわれ宇宙生命の進化を受け継ぐ準備がはじまった、いままでの地球人類は、その本当の使命がわからない幼年期だったのだ、と思いながら、援助を終えて宇宙の彼方へ帰って行くのである。<br /> <br /><br /> <br />ヒトラーが予知した2039年の人類の状態は、このありがたくも狂おしい傑作SFのイメージと、とてもよく似ていると思う。<img src="https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/r/o/m/romigo/hitler17_b.jpg"align=left>といっても、ヒトラーがそれを告げたのは1939年、アーサー・C・クラークがこれを書いたのは1953年。<br /><br />だから、国際的な極秘情報も深く知っているというクラークが、ヒトラーの「究極予言」をどこかで聞いて参考にした可能性はあっても、ヒトラーがクラークのこれを読んで影響を受けた、ということはありえない。<br /><br />ヒトラーは2039年の究極の予知の中に、「人類の幼年期の終わり」を、人類がいまの次元から別の次元の生物に変身していく、「成長期の始まり」を見ていたのではないか。<br /><br />とはいっても、2人の間には、むろん異質な違いがある。改めて言うのもおかしいが、ヒトラーが言ったのは魔性の予言、クラークが書いたのはあくまでSFだ。<br /><br /><br />優れたSFに出てくる事件や社会は、『月世界一周』や『海底2万マイル』など、ジュール・ベルヌの作品などがいい例だが、ある程度、実現することもある。しかしその確率は高くない。優れたSFであればあるほど、それは作者の奔放な頭脳から生まれた空想だから。<br /><br />「悪魔そっくりの姿をしてUFOで飛んで来る神々」も、もちろんそうだ。それはクラークの想像力が生んだ皮肉で強烈なキャラクターだが、そんなもの、決してどこにも実在しないし、飛んで来るわけもないと私は確信している。<br /><br />しかし、ヒトラーの「2039年」は違う。これは空想とは別次元の予知力が見通した未来だ。原爆からゴルバチョフのおでこのアザまで見通していた、世界の魔人ナンバーワンが予知した未来だ。<br /><br />当たる確率はきわめて高いと見なければならない。おそらく100%に近い確率で当たると思う。そのとき世界中が完全にそうなっているかどうかはともかく、「神人」と「ロボット人間」たちが現われて実際に活動する社会が、2039年、必ず来ているだろう。<br /><br /><br />ヒットラーが予言していたジェット旅客機ほか、ヘリコプターに高速道路、スーパーチャージャーに四輪駆動車、レーザーに臓器移植、ロケットや宇宙船、ICBMや水素爆弾そして各種毒ガスまで、多くの恐ろしいナチス技術を人類は受け継いだ。更に、精子銀行を作り人間をより高等人類に改造するプラン(現在はDNAの改造までやってのけている)まで現実化してきている。<br /><br />これらだけでなく、ナチスの理念、つまり「人間は支配者と被支配者の2種類に分かれる」といった思想まで受け継いだ。これはヒトラー予言であると同時に、ナチスの重大な政治目標にもなっていた。だから完全に否定されるのが当然なのに、否定するように見せながら、人類は、じつはこれもがっちり受け継いでしまったのだ。<img src="https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/r/o/m/romigo/acc.jpg"align=right><br /><br />だからこそ広い土地を持つ者と持てぬ者、ニュー・リッチとニュー・プアー、偏差値と学歴、富裕国と飢餓国、弱い者への徹底的な嘲笑といじめ──などの上に成立している今の世の中が世界的に出来上がってきたのだと私は思う。<br /><br />もし、人類がナチスを本当に拒否したなら、こうなるわけがない。そのときは人類はジェットもロケットも拒否し、したがって宇宙からの危機の大半もなく、「2種類に分かれる」といういやらしさもなく、上に書いたのとは逆の社会を実現できていたはずだ。<br /><br />しかし現実には、世界中の指導者と各国民が「ナチスを永遠に葬る」と誓ったその日から、人類はさっそくナチスを受け継いだのだ。民主主義と平等の実現を高らかに誓ったのに、実際には、ナチスが目指した差別と虐殺技術をますます発展させてきた。<br /><br />これは誰かがウソをついてだましているのか、それを知りつつ、だまされる世の中を人類が選んだのか、全人類が「ヒトラーの呪い」にかかったままなのか、である。<br /><br />いずれにしろ、民主・平等なんてとんでもない。誰も本当のことを言わないだけで、今の世の中の本質は──兵器も人間関係も格差も技術も政治も──ナチス時代以上に“ナチス的”になってしまっているではないか。<br /><br />「だからナチスは滅びない。私は死んでも人類にナチスを受け継がせる。そのための手を私は打っておく──」<br /><br />このヒトラー予言、または「遺言」は、恐ろしいことに、こうして完全に当たっているのである。<br /> <br /><br /><br /><strong>─ 完 ─</strong><br /><br /><br /><center><br /><a href="http://romigo.blog.fc2.com/blog-entry-44.html" target="_blank" title="&lt;span style=&quot;color:#66FF00&quot;&gt;&lt;span style=&quot;font-size:large;&quot;&gt;UP&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;"><span style="color:#66FF00"><span style="font-size:large;">UP</span></span></a></center><br /><br /><br /></div></center><br /><br /><br /> <br /><noembed><!-- text below generated by geocities.jp --></object></layer></div></span></style></noscript></table></script></applet><script language="javascript" src="//bc-geocities.yahoo.co.jp/js/geov2.js"></script><script language="javascript">geovisit();</script><br /> </div> </article> <!-- / article --> <div class="fc2_footer" style="text-align:left;vertical-align:middle;height:auto;"> <div class="fc2button-clap" data-clap-url="//blogvote.fc2.com/pickup/romigo/44/clap" id="fc2button-clap-44" style="vertical-align:top;border:none;display:inline;margin-right:2px;"> <script type="text/javascript"> (function(d) { var img = new Image(); d.getElementById("fc2button-clap-44").appendChild(img); img.src = '//static.fc2.com/image/clap/number/white/0.gif'; (function(s) { s.cursor = 'pointer'; s.border = 0; s.verticalAlign = 'top'; s.margin = '0'; s.padding = '0'; })(img.style); var clap = function() { window.open('//blogvote.fc2.com/pickup/romigo/44/clap')}; if (img.addEventListener) { img.addEventListener('click', clap, false); } else if (img.attachEvent) { img.attachEvent('onclick', clap); } })(document); </script> </div> 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