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Collage Novels




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いろはの幸太郎
(このコンテンツは、2018年12月24日にMr.Tsubotaから電子メールで送信されてきて以来、
その後何回に渡り、本人による追加や訂正があり、現在に至るものです)


田楽男







オスマン帝国海軍のエルトゥールル号遭難事件(1890年-明治23年-9月16日夜半、現在の和歌山県東牟婁郡串本町沖、紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難し500名以上の犠牲者)に際して、山田寅次郎(幕末の慶応2年-1866年-沼田藩用人・中村雄左衛門の次男として沼田藩の江戸上屋敷で誕生)という人が、この事件に衝撃を受けて日本国内で民間から『この遭難犠牲者の遺族に対する義援金』集めを2年をかけて自ら行い、事件の翌々年には集めたお金(5000円、現在の価値で1億円相当)を携えて帝国の首都にまて渡り、そして義援金を遺族に届けた、という彼の善行を紹介するTVのBS番組を、たまたま私は見ていた。
出典 copy site


父から聞いていた、私の実の祖父の名前である山田重太郎と、この人の名前である山田寅次郎との感じが似ていることから、何らかの関連があるやもしれぬと夢想し、物は試しとネット検索をしてみた。 すると、Yahoo検索の5頁目で山田重太郎の名前に突然ヒットした。
しかも思わぬところからだ。


おおもとの教祖・※出口王仁三郎が書いたという所謂・経典「霊界物語」、「大本70年史」の記述の中に、この名前山田重太郎が登場してきた。

※出口王仁三郎(わにさぶろう)については、かつて超能力について色々
と調べているときに、教祖「出口なお」とともに その名前は知っていたが、まさか王仁三郎の名と共に、祖父の名前にここで出会えるとはと、二度吃驚。 このネット経典には 、あろうことか文字の検索機能が付いていた為に、ヒットした名前や事柄の部分だけが赤帯文字となって表示されるので、容易に調べることができたからである。

そこには、下の大本70年史第6巻、第7巻とコピペ表示した様に、祖父は祇園の侠客として記述してあったから、加えて三度吃驚することになった。(大本のsite)
( 出口王仁三郎は当時、上田鬼三郎とも呼ばれていたが本名は上田喜三郎。また、会津小鉄会の創始者である大親分・上坂仙吉の若頭が、いろは幸吉こと長谷川幸吉。その次男が、いろはの幸太郎こと長谷川幸太郎)





1.大本70年史 第6巻 天雷の声

明治33年7月 前述略  出典copy site一番下の方 検索site


梅田夫婦が帰ったあと、大本には京都よりの客人が続いた。雨の宵、加茂茄子を土産に、野崎宗長と実弟の松井元利が初参綾。野崎宗長は千家流茶道の宗匠で、大谷法主に茶を教えたこともある人。松井元利は本願寺の名望高い職員である。

野崎は、島原の金光教会、杉田政次郎の弟子で、広前の役員であったが、「かつての同僚南部孫三郎が破門されてのち綾部で修行して、不思議な霊力を身につけた」との噂に近松家を訪れた。初めて見る霊術のあやしさに魅き込まれて、兄弟で南部の元に通った。まやかしであれば看破してやろうと南部につきまとったが、仕掛けがわからぬ。そのうち、転宗する金光教信者が相ついで、近松家は足の踏み場がないまでになった。

やがて、南部の地金が現われてきて、近松政吉の妻自由とおかしくなった。二人は、人目もかまわず、夫婦きどりで夫政吉を顎で使い出す。

「生神さんに取られた嬶を、亭主がありがたがって拝んだはるそうどすで」と、たちまち町中の評判になった。

野崎、松井兄弟は南部に抗議したが、「神の仕組みじゃ」と取り合わぬ。

霊学に傾斜しかけた彼らは、この醜態を見て疑問を感じた。果たして、こんなばかげた神の仕組みがあるのか。綾部の大本では、いったい、南部孫三郎の行状を何と見るか。自分の目で確かめる必要があった。

野崎は実状を訴え、悲憤の口調も激しく喜三郎にせまった。喜三郎は鎮魂の姿勢となり、ややあって言った。

「神さまに願って、今日限り南部孫三郎の霊力は止めましたさかい、こらえとくれやす」

野崎は松井と顔見合わせた。喜三郎は、神霊の実在・神と人との関係・人と生まれての使命を説き、艮の金神の出現と金明霊学会の教旨を説明した。

教祖出口直の人柄にも触れ、その筆先を知り、実地の鎮魂帰神を見聞に及んで、兄弟は感激して入信を誓った。滞在は、日一日と延びた。知識階級である彼らと喜三郎の結びつきは、中村竹吉や四方春蔵を脅かした。

「二人も学者が来て、いろは四十八文字の身魂の大本を乱す」と、騒いだものである。

南部の霊力がぴたりと止まり、お神徳が立たなくなると、信者たちはあきれて寄りつかなくなった。騙されたと知った政吉は、「嬶を返せ」と半泣きで訴えるが、強気の南部は居すわって動かぬ。

当時、大工が普請する時には、地元の侠客に挨拶を通す習慣があった。明治三、四十年代の関西の大親分は、東山区川端通り四条の山本覚太郎。その身内の親分には土岡甚平(亀岡南桑田方面)・いろは組の長谷川幸吉(西陣島原方面)・増田伊三郎(伏見方面)・山中某(篠山在)・石田某(北桑田方面)がいた。

いろは組の長谷川幸吉は、東山区宮川町に住む。近松家は、いろは組の系列の子分衆とつながりをもっていた。実際には、幸吉の息子のいろはの房ぼん(長谷川房次郎)、その異母弟のいろはの幸太ぼん(長谷川幸太郎)がにらみをきかし、その配下にはそれぞれ子分衆を擁する橋本清・兵隊武・水車政などがいた。

政吉は、水車政に南部追い出しを頼んだ。水車政は「電車の先を走る」と言われ、その早足をもてはやされていた。彼は近松家に乗りこみ、南部をおどして苦もなく追い出した。


噂はおもしろおかしく広まった。この事件を、京極の大寅座の馬鹿八という座主が俄芝居に脚色、近松家の喜劇として、小屋に毒々しげな絵看板まで上げてしまった。

信者からの急報で喜三郎は上京、政吉を励まして、ともかく芝居興行を止めさす工夫に走りまわった。いろは組の幸太郎は、喜三郎の申し出を受けて、幹部の祇園の侠客山田重太郎※1 祇園会合所の社長)を仲裁に馬鹿八座主にかけあわせた。

結局、看板料五十余円を投げ出してこの事件は治まる。





2.<大本70年史 第7巻火水の戦い>

明治34年10月頃の話 前述略 出典copy site真ん中辺り


「すまなんだのう。堪忍してくれ」

畳に頭をすりつけた。屈辱感がぐっとこみ上げた。涙がこぼれてきて顔を上げられない。杉浦が大喝した。

「どや、小松林、改心するか」
「改心する……」
「きっとやな」
「きっとや」

卑屈な憐れっぽい声を絞った。が、その時には、そのみじめな己れをもう一つの眼で見つめる鬼三郎があった。 ――よう似合うぞ、鬼三郎。これも変化れの手のうちや。

肩そびやかして杉浦と時田が帰った後、鬼三郎は西村に、宮川町のいろは幸太郎を呼びにやらした。長谷川幸吉大親分の次男坊いろは幸太郎とは、近松家の揉め事を解決して以来の知り合いであった。幸太郎は鬼三郎の人柄によほど好意を持ったらしく、何か面倒なことがあればいつでもお役に立つといってくれていた。



夕方になって、幸太郎は子分の、これも顔見知りの祇園の侠客山田重太郎を連れて来た。幸太郎は当時二十四、五歳、引き締まった浅黒い顔立ちのいい男。鬼三郎は、伏見の危難をあけすけに彼に打ち明けた。

「そこであんたに頼みがあるんや。事情があって、わしは今、一刻も早く綾部に帰りたい。けれど、いつ岡田良仙に見つかるかと思たら、恐うて外へ出られんのや。綾部の近くまで、誰か強い子分に送らせてもらえんやろか」

幸太郎があきれて鬼三郎の顔を見つめた。

「上田はん、いくらやくざでも、相手は旅の男どっしゃろ。喧嘩出入りはあいつらにはつきもんや。何日もあんたをつけ狙うほど、暇やありまへんで」
「幸太ぼん、あんたは天下国家のためにお役に立つ人間になりたいと思たことないか」
「そら、ありますが……」と、幸太郎はぽかんとした。
「お役に立つ人間になれるという自信もあるやろ」
「へえ……」
「わしかてや。天下国家どころやない、三千世界の立替え立直しのために、わしはなくてはならん人間や……」
水鳥の羽音にも驚きそうな鬼三郎がどでかいことを言い出したので、幸太郎はまた驚いた。

「いうならば、わしの肉体はわしのものであって、同時に神のもの、世界万民のもの、いや、わしは三千世界の宝……その宝を預かっとる管理人でもある。いざの時に投げ出す命はさらに惜しくもなし恐くもないけど、岡田良仙ばらに殺されたんではそれこそ犬死や。わしはそれが恐い。わしの不注意からわしが預かっとる三千世界の宝を失うては、神罰のほどが恐ろしい。今頃、岡田良仙はわしのことなど忘れとるやろ。しかし万に一つの可能性があれば、それを避けたい」

「へーえ、そうどすか。けど、それほど自分を大切に扱うてなはる上田はんが、なんで稲荷下げをからこうて廻らはるのどす。今度みたいな危険は当然覚悟せんなんどっしゃろ」

鬼三郎が笑い出した 。

「それや、それや。いつもはわしが大事な体やいうこと、ころっと忘れとるのや。ところが妙なところで思い出す。と、恐うて動きがとれん」

幸太郎も笑い出す。と、山田重太郎が、生真面目な顔になって申し出た。
「幸太ぼん、わしでよかったらこの役、やらせてもらいまっせ」
「行ってくれるか。三千世界の宝やそうな。責任は重いで」
と幸太郎。山田は喜んで頭を下げた。
「先生、綾部までお供させておくれやす」

わずか十日ばかりのうちに、丹波路の山野の木々はすっかり紅を増した。並松の松並木の間に和知川の流れを染めて耀う紅葉。山田重太郎は別れ惜しげに足を止めた。

「それではここまでで……」
「おおきに。ゆっくり遊んでいってもらいたいとこやが、綾部の事情がそれを許さん」
「分かっとります。また、改めて来させておくれやす」
「なんかの時には綾部に向かって手を合わすんやで。肩意地張って男度胸を売り込むよりは、できれば堅気になった方が良いが、義理もあるやろ、すぐというわけにもいくまい。だが、どんな時でも、惟神霊幸倍坐世( かんながら たまち はせませ )を忘れたらあかんで。惟神霊幸倍坐世( かんながら たまち はせませ )と念じる心はやな、神さまのみ心のままに神霊の幸福をたまわりませという意味や。

大事なのは惟神、つまり神のみ心のままにということ。人としての最善をつくした上で、あとはどうなろうとも神にお任せするという安らかな態度が、神に向かう人としての〈まこと〉や。己れを無にすることも知らず、がむしゃらに利欲を願うても無駄。神さんはその者の召使いやない」
「……」
「心だにまことの道にかないなば祈らずとても神や守らん、という古歌があるやろ。それを引き合いに出して、己れの無信仰を弁護する奴がおる。一面の真理やが、他面では大変な思い上がりや。心がまことの道にかなうようになるために、まず人は祈る。神に心をふり向ける。『おれは自力で立派にやる。祈る必要はさらになし』……なるほど強くて頼もし気に見えるが、神に日々生かされていることを知らぬ奴らのいうこと。神床に向かって正座し、型通りの祝詞を奏上する。

そこまでいかんでも、嬉しい時に手を合わせてみい。悲しい時にもや。道歩きながら、転びながらでもよいのや。惟神霊幸倍坐世( かんながら たまち はせませ )という余裕がなかったら、惟神でも、神霊でも、神でもええ。その一念さえ通ったら、神さまは守ってくれはる。ほな幸太ぼんによろしく……」
「先生、こうっと……空の色がきれいや、草も木もすばらしい。なんやわし、別の世界を見ているようですで……」

手を振りはずんだ足取りで帰る山田重太郎が並松の端を曲って消えるまで、鬼三郎は見送った。臆病を何より恥とし恐れていたやくざの世界で、鬼三郎の人間らしい臆病さを見せられ、逆に山田の心が鬼三郎に向かった。そこへ神の話を注入し、充たして、体主霊従の世界の泥をすすいでくれたのだ。用心棒は、京都から綾部への道中半ばで、すでに入信を誓っていた。





3.「いろはの幸太郎」の人となり


いろはの幸太郎は、任侠の代名詞として当時有名人だったらしく、次のように、大衆演劇の題材としても取り上げられている。

幕末の京都、幕府から会津藩が市内の警護を任されていました。その会津藩のなかで、新撰組というのが作られ京都の見回りを行い、厳しい詮議をしていた時代です。

当然のように、ヤクザ渡世の名張屋一家の若い者たちと、新撰組とのこぜりあいも起こってきつつあり、このままでは、新撰組との抗争に発展し、名張屋一家は壊滅状態になるやもしれない。

そこで、会津小鉄の中間部屋の頭である上坂仙吉を二代目にして、会津藩から許しをえたかたちにして、名張屋一家から会津組にと組名も変更し、新撰組と会津小鉄組が手を結び、武士は新撰組が、町人は会津小鉄組が詮議して京の都を守るようにと話し合いがついた。

そのことによって武士の勝手な争いから、京の都で暮らす人々を守ることにつながり、また名張屋一家の面々も守ることができるのである。

新造親分の真の目的は本そこにあった。だからこそ、上坂仙吉でなければならなかったのではないか。そういった幕末の京都を もっともっと強く描いてほしい、というのが桃象( 出典 copy site 真ん中辺り )である私の本音なんです。

さらに、名張屋一家の新造親分の代貸に、いろはの幸太郎という人物がいます。

この人は、上坂仙吉が二代目を継ぎ会津の小鉄となってからも、代貸をそのままやりまして、小鉄亡き後には三代目を継ぐ人物です。

通常なら、親分を殺した若い男が二代目になるというのを、子分たちはなかなか納得できない跡目相続です。

代貸の幸太郎にしても、本来は、自分が継ぐであろうはずが、どこからか来た若者に跡目を継がせるのは悔しいにちがいない。

それを新造親分の意思を尊重し、子分たちをたばねた代貸・幸太郎の心中、心意気のものすごさ。

名張屋新造、上坂仙吉、そして「いろはの幸太郎」、この三人のそれぞれの思惑やら心中を、もっともっと強く描いてほしいなぁと、思うわけです。


また、「いろはの幸太郎」は、傘下の暴力団組織を通じて、次のような各種の不正な暴力行為にも手を染めていたことが窺われる。

会津小鉄子分による京都鉄道の工事妨害 出典 copy site 真ん中ほど

明治29(1896)年4月、工事は京都から開始され、翌30(1897)年11月、嵯峨までの10kmが開通する。平坦な土地で施工はスムーズだった。しかし、嵯峨から先、亀岡までの工事には京都の侠客『いろは』こと山本角次郎が乗り出してくる。

『いろは』は、維新前後に京都で名を馳せた侠客・会津小鉄(*9)の子分だった。会津小鉄は直系の子分だけでも京都を中心に滋賀、大阪、神戸に2,000人、配下も加えると1万人は下らない大親分だった。『いろは』は子分の一人にすぎないが、幕末期の小鉄一家四天王のひとりに「いろは幸太郎」という人物がおり、その系統の子分かもしれない。

『いろは』は自分の縄張りで挨拶のない者は縄張りを荒らす者だと言う理由で、子分たちに命じて暴行、金銭の要求をするなどその振る舞いは傍若無人だった。

『いろは』の工事妨害により、この区間の施工業者は吉山組、有馬組、稲葉組、大阪土木会社と次々と変更された。京都鉄道側はとうとう根負けして二条駅付近の工事を彼等に施工させてみることもしたが、きちんとした施工はもちろん望むべくもなく、工事は滞ってしまっていた。

困り果てた京都鉄道会社の重役・浜岡光哲(*10)は、旧知の鹿島岩蔵にこの工事を引き受けてもらえないかと懇願する。義侠心あふれる岩蔵はこれを引き受け、腹心で鹿島の三部長の一人、池田亀吉(*11)を代人として出す。

池田は『いろは』の勢力の強さと横暴さを知り、この工事は成功の見込みがないからやめるべきだと岩蔵に進言する。岩蔵が、「せめて現地へ赴き見積もりだけでも出してくれたら、後の工事は新見(*12)にやらせるから」と言っても、普段は従順な池田だったが、この時ばかりは首を縦に振らなかった。

そのため岩蔵は、新見七之丞を現地へ行かせる。新見は、「鹿島の新見か、新見の鹿島か」といわれ、各地の鉄道工事で鹿島組の代人として活躍した人物で、折衝が巧みで業界代人中でも傑出した存在だった。現地を見た新見は、鉄道会社が提示した工事費64万円を、「安すぎる、あと20万円は上乗せしてもらわないと、引き受けることはできない」と岩蔵に報告する。

新見は『いろは』とのトラブルを見越し、引き受けられない理由として工事金額が安いということにしたかったようである。『いろは』の横暴ぶりは、当時全国で鉄道を施工していた鹿島にとってさえ、それほど厄介なことであった。

岩蔵は、ついに鹿島の三部長最後の一人、星野鏡三郎(*13)を遣わす。彼は鹿島組から独立して星野組を立て、篠ノ井線の工事を始めた直後だったが、『いろは』こと山本角次郎に諄々と事を説き、ある時は恫喝し、ようやく説得に成功する。

星野は万一の場合を考え、鹿島組配下の中でも一番の気骨と腕っ節を持つ前田健次郎を下請け人頭として同行、巡査経験のある人材を広く募集し、現場の警備にあたらせた。『いろは』との交渉はすべて前田が引き受け、工事中悶着を起こすことは一度もなかった。また、鹿島組は『いろは』にトンネルの煉瓦の石積みの一部を請け負わせ、彼等はこれをまじめに努めたという。





4.真実はどこに

しかしながら、同姓同名は数多くあるからして、「大本70年史」に登場したこの山田重太郎という人が即祖父であるとは限らない。だから次は、その年代、活動地域、父から聞いて知っている人となり等と、この人とのそれがあて嵌まるかどうかを調べることである。

年代は明治33年と34年の事柄としているので、当方の知る重太郎(明治8年生--1875年)の年齢で換算すると、25歳と26歳頃の話となるので歳回りは相応だ。一方、いろはの幸太郎は、当時24、25歳頃と記載されているので、子分だった重太郎の歳としても違和感はない。年代は合うようだ。

地理的には、国道9号線の三和(みわ)で、北に向かうと福知山・舞鶴方面に、東に向かうと綾部方面へと道は分かれている。三和から綾部までは、凄く近い。私が車で帰郷するとき、京都から9号線でこの三和で左折して郷里に向かうから、この付近の地理はよく頭に入っている。恐らくこの三和で、重太郎と王仁三郎は別れたに違いない。何故かなら、祖父が根城としていた野上野(のこの)へは、この三和から西に向かい峠を越えて市島に入ると、もう野上野へは目の前だからだ。

綾部へと向かう道中、王仁三郎から惟神霊幸倍坐世( かんながら たまち はせませ )と念じよと諭されて、改心したと記述されているので、重太郎は京都に向かわずに、ここ三和で西に踵を返し、文字通り侠客の道から堅気への道へと、人生の方向を切り替えたに違いないと、私は想像する。

父が生まれたのは明治45年(1912年)だから、その時には重太郎は37歳になっており、堅気になってから11年後に父が生まれたことになるので、年齢的にも地理的にも齟齬はないように思える。

次には人となりの問題だが、拙著Short Story の「相続人」で、祖父のことについて記述にはこう書いてある。

父によると、父方の祖父、つまり父の父は背も高く大柄、声もでかく豪放磊落な人で、男を集めて組を作りその親分となって、牛車で材木を運んで売ったり、当時は蚕から生糸を撚るのが産業だったから、桑の葉を備前から運んできて養蚕家に高額で売ったり、はたまた博打場を開帳してその胴元になったり、家の2,3軒は買える程の博打収入だったり、鉄砲が好きだったらしく、犬を連れて獣撃ちに興じたりと、束縛を嫌い自由奔放な人であった。と、

気づけば、ここには、渡世人そのものの姿が描かれているではないか。

その山田重太郎が、大変な美人だった祖母を誰かの紹介で見初め、遂には男の子2人を授かる。7~8歳下の次男坊の方が私の父に当たる人だ。そして、彼女を育てた助産師の家には入らず、婿養子にもならずに自由気ままに暮したらしい。而して父達は『母子家庭』となり生活が困窮、仕方がないから祖母は別の人と一緒になる。この辺りの事情も、母方の祖父の行状と瓜二つ。

野上野の祖父・山田重太郎も別の女性と再婚するが、子には恵まれず、依って妻の甥っ子を養子にと迎える。町役場の助役を長年に渡り勤め上げる程、その甥っ子は頭の良い人だった。その彼も、ある知り合いの女性と結婚することになるが、子にはどうしても恵まれなかったという。そして、平成8年に逝去されたが、彼の妻は母の入っている同じ養護施設で、95歳となって今も存命中。

しかし、この方が亡くなられると、土地・田畑を残したまま、この家は絶えてしまう。言い換えれば、母方と同じように、ここも絶えるべくして絶えゆく運命なのであろうか。

また、その甥っ子が自分で考案した無農薬で純粋な粒状固形の「赤山ケール」の製造販売をやっていた関係で、私は何回かお家に通い、販売のお手伝いをさせて貰ったこともあったが、今やこの祖父・重太郎と血縁のある者は、とうとう私だけになってしまった。誠に因縁深い関係である。

話を元に戻して、その祖父が、あるとき、その狼藉無頼の天罰か、年貢の納め時だったのか、獣撃ちの最中に山で死んでいたというではないか。

昭和6年のこと、村での祖父の評判は大変に悪かったが、それでも獣撃ちと犬が帰らぬからと村人達が騒いで山狩をして、死んでいた祖父を山中で見つける。側には犬が座って待っていたという。

実は、私は心臓に持病がある。祖孫一致とはいうが、彼にも私と同じ持病が心臓(今で言う心室細動)にあり、引き金を引く瞬間の興奮の絶頂で小便を濡らし、サドンデスをしていたというのである。突然に、心臓が止まったからだ。

その後、父がある事業を起業し、順調にいっていたときに自分達の父母の為にと叔父の墓地に墓を建立したが、そこに「圓應實成居士」と重太郎の戒名が書かれている。自分なりの解釈だが、喧嘩や金や土地に纏わる地域の揉め事の仲裁を頼まれて、それに応じて円く治め實を成すという、その道の人達の得意技がこの戒名の内容に示されているのではないかと、私は想像する。

というわけで、10中9.99は、この山田重太郎という人物が、私の祖父に間違いはないという結論を出すに至った。加えて、代貸「いろはの幸太郎」という侠客がいなければ、子分の重太郎が王仁三郎を綾部まで送り届けるために同行することもないので、つまるところ私は存在しなかった、ということも言えるのではないだろうか。

それにしても、祖父の山田重太郎がその筋の怖い人だったとは、想像だにしない結末ではないか。父母の墓は、我々夫婦で比叡山に建立したが、祖父の墓は田舎に置かれているままだ。だから帰郷する度に、私はいつも祖父の墓参りをする。しかし、本家にある重太郎の墓は手入れがされていないし、墓前には花立もない。

実は、献花を拒否する目的で誰かがこの花立を墓石の裏に隠しているからだ。私は、墓掃除をしてから、その陶器製の古びた花立を石塔の裏から探し出して地面に差し、白い菊の花を献花する。それから線香に火を点け、親しみと感謝の心を添えて、いつもの様に般若心経を読経する。しかしながら、血の繋がらない者にとっては、祖父の墓は邪魔な存在であり、死しても尚、嫌われ者でしかないということなのだろう。


それで我が親族や親達は、祖父のことをタブーにして私に隠していたのだと、また知らなかったのは自分だけだったのではないかと、今日この頃になって初めて合点がいく始末であります。西の空に橙色に染まり、横に薄っすらと伸びた雲を見た時のように、やっと積年の謎が解けた心地であります。

既に父母が他界し、今や生活の基盤が他府県にあり、また故郷の家も更地にし処分したので私にはもう帰る所はない。このままでは、祖父の記憶がこのまま埋もれてしまうのかもしれないと思うと誠に切ないものがあります。そこで、この記録を後世に残したいと思い執筆しました。そして、この過去は未来への扉となるに違いない。





5.祖母方の先祖は、蔵人所・滝口(正六位下)の家系かもしれない
地下家(じげけ)の一覧 日本の官制 蔵人所

祖父のことに決着がついたので、次は長年の謎だった祖母のことを調べようと思い、正月休みの暇つぶしを兼ねて、再び検索を始めた。聞かなかったからか、知られたくなかったからか、知る必要もなかったからか、親からも叔父叔母からも誰からも教えて貰っていなかった、この謎についてである。

丹波の田舎に一軒しかない、この苗字がどこから来たのかという課題である。祖母、曾祖母、曾曾祖母がすべて同じ坪田となっており、当家は所謂、後家筋となっている。

山田重太郎の時のように、フルネーム検索、それに年代や地域を加えて、手を替え品を変えやってみるが、ヒットはしない。族でも出ない。やっぱり、故郷に帰って、従兄かもしれないと父が言っていた舟木電機店の一族の人に聞くより他はないか、と半ばあきらめかけていたその時のことだ。

試しに、坪田家だけで検索してみると、突然に上の「地下家の一覧」にヒットした。地下家とは、何のことか分からなかったが、次のように記載されている。

天皇の日常生活の場である清涼殿南廂にある殿上間へ昇ることを昇殿というが、公卿以外に昇殿を許された者を殿上人、許されない者を地下といった。9世紀(平安時代中期)以降、昇殿を許されるかが朝廷の身分制度として重要な意味を持つようになったが、はじめは天皇との私的関係に基づき、個人に許されるものであった。

しかし、公家社会において世襲や先例重視の傾向が強まるとともに、昇殿を許されるか、どの段階で許されるかは、出自(家格)によっておおよそ決まるようになっていく。中世以降は、昇殿を許される家(堂上家)と昇殿を許されない家(地下家)という家格が、明確に区分されるようになり、地下家の概念が成立した。後には、地下家の廷臣は三位に昇っても昇殿は許されないようになった。

その地下家の一覧siteで、蔵人方の滝口に坪田家が記載されていることを大発見したのである。これも、全く想像だにしない驚愕の事実であった。以下の、滝口を参照されたし。





6.『滝口の武者』とは

滝口の武者とは、「蔵人所」管轄の下、内裏の守備に当たる下級武官のこと。嵯峨天皇が側近官僚として新設した「蔵人」が、やがて守備も担当するようになったもの。規模は10人~30人ほど。天皇の身辺警備が任務。

禁内の警衛・宿直、天皇の供奉、お使い、庭の植樹などを担当する職で、特に容姿に優れ、武芸に長じた人を試験して任じます。後世の武家の「小姓〔こしょう〕」にたとえると思い浮かべやすいかもしれません。

定員は、はじめ10名でしたが、後に定員20名となり、白河天皇の代に30名まで増やされ、その後また20名となります。『滝口』という職名の由来は、清涼殿の北西、「御溝水〔みかわみず〕(御殿周囲を取り巻く溝)」の落ちるところを「滝口」と言い、その脇に詰め所があったことから来ています。

任官順に『一臈〔ろう〕』『二臈』と言い、「一臈」は別称『滝口惣官〔たきぐちそうかん〕』と言います。また、『三臈』までの3名を『上臈〔じょうろう〕』と言い、『四臈』は『事行〔じぎょう〕』と言います。

3名以上で宿直〔とのい〕する際は、『問籍〔もんじゃく〕』(=『名対面〔なだいめん〕』『とのゐ申し〔とのいもうし〕』)といって姓名を名乗ることをし(1〜2名のときはしません)、それを蔵人が奏聞します。

さらに、滝口に課せられた役割は、普通の武力よりも、寧ろ天皇を見えざるモノノケ・邪気・ケガレから守護するという役割、すなわち鳴弦に象徴されるような「辟邪の武」という呪的威力にあった、と言われています。

また、『源氏物語』「夕顔」巻(紫式部) にも、こう書かれている。
この、かう申す者は、滝口なりければ、弓弦いとつきづきしくうち鳴らして、「火あやふし」と言ふ言ふ、預りが曹司の方に去ぬなり。内裏を思しやりて、名対面は過ぎぬらむ、滝口の宿直奏し、「今こそ」と、推し量りたまふは、まだ、いたう更けぬにこそは。

尚、北面の武士とは、上皇(院)に仕え、身辺を警護した武士。院御所の北面に詰め所を置く。白河上皇に仕える武士で編成された。武士団の勃興もあり、彼等の従える家人郎党を含めて1000人規模にのぼった。平家が出世街道を猛進したのも、この北面の武士から。形骸化するが、明治まで続く。
復元された御所の清涼殿にある滝口

copy site 一番下 滝口の武者平家物語 滝口入道と横笛






7.『滝口の武者』の子孫であるかどうかの考察

坪田家が滝口として本格的に稼働し始めたのが室町時代(1336~)からだと仮定すると、幕末の廃止される時期(~1830)までの間、滝口は約500年間続いたことになる。人間の平均世代交代を約40年とすると、この500年間で500÷40=12.5だから、人間の平均世代でいうと約12世代続いたことになる。

世職である滝口が代々伴侶を作り、子供が平均して2名づつ生まれていったとすると、この武者の子孫は、数学的に等比級数で増えていくから2の12乗倍で4,096名となる。しかし、病気で死んだりもしたであろうから、2,000名前後か。 1世代前の11代では2の11乗で2,048。この半分ぐらいは生きていたとして計3,000名。女性は嫁に行って姓が変わるから、そのうち有効数を男性だけにすると、半分として武者の子孫は総数1,500名前後か。この1,500名を1830年での生きていた滝口子孫の坪田家数と想定してみよう。

つまり、滝口である坪田家の子孫が、500年経過して、全国に約1,500名前後が散らばっていたことになる。名字由来によると、現在坪田姓は全国に16,400名しかなく、中でも福井、兵庫、北海道、滋賀に多い。5世代前の明治時代だと、かなり少なくなってこの全数は10,000名程度ではないだろうか。すると、1,500名の10,000名との比率は15%程度。

現在に於いて、地名から坪田姓になっている者が殆どだと思われる関東等は除外して、全数16,400名の内、兵庫東部(1200)、京都(480)、滋賀(690)の合計2,370名が、この坪田姓全数の約14.5%程度となり、上の比率とほぼ合致するので、この地区の人たちは滝口家系の子孫といって差支えがないだろう。

これだけでは何の証明にもならなくて単なる気休めかもしれないが、私の祖母、曾祖母、曾曾祖母はこの滝口家系の子孫の中に入っているといっても良いかもしれない。坪田というこの極めて珍しい姓が、近隣郡部を全て含めても、丹波の辺鄙な山深い黒井という田舎に1軒しかないから、何らかの都合で、夫を亡くした曾曾祖母が娘を連れ都から落ち延びて、流れ着いたに違いないと想像できる。

一方、丹波の守護代を家系とする荻野一族は、明智光秀軍の攻撃に対し、黒井城を根城としてよく戦ったが、二度目の戦いでついに光秀に敗れて落城し、正光やその長子朝高は討死。荻野氏は没落、残った一族も離散していったと記されている。

この離散した一族の系譜である荻野某と曾祖母との間に生まれたのが我が祖母、その祖母と上の記事の山田重太郎との間に父が誕生したことになる。何故かなら、この荻野某とのことは、生前に父から聞いて知っていたからだ。

新たな発掘調査による正否は後世の判断に任せるとして、自分の心の中に同居している、この気位が高いという感情と正反対の破壊という感情の出所が、言い換えれば私の抱えているDNAの根源が今初めて分かりかけたような気がする。

最後に、いろはの幸太郎が我が祖父を引き立て、王仁三郎に会わして呉れた御蔭でわが命があるのだ、ということも改めて感謝し、重太郎が言ったと記されている言葉、「先生、こうっと……空の色がきれいや、草も木もすばらしい。なんやわし、別の世界を見ているようですで……」を締め括りにして、 この話をここで終えよう。


かんながら たまち はせませ

おんかかか びさんまえ いそわか。

南無阿弥陀仏 

合掌








(参考1) 任侠と極道の違い

任侠とは本来、仁義を重んじ、困っていたり苦しんでいたりする人を見ると放っておけず、彼らを助けるために体を張る自己犠牲的精神を指す語です。 また、ヤクザ史研究家の藤田五郎の著述によれば、正しい任侠精神とは正邪の分別と勧善懲悪にあるといいます。 仁侠、義侠心、侠気(、男気などともいいます。

極道(ごくどう)とは、本来仏教用語で仏法の道を極めた者という意味であり、高僧に対し極道者(ごくどうしゃ)と称し肯定的な意味を指すものであります。

しかし、江戸時代より侠客(弱いものを助け、強い者を挫く)を極めた人物を称える時に『極道者』と称した事から、博徒(ばくちで生計を立てる者)までも極道と称する様になりました。

そのため、本来の意味を外れ道楽を尽くしている者、ならず者や暴力団員と同義語で使われる逆の意味で使用される事が多くなったそうです。

明治期の落語や劇では、素行の落ち着かない者、就労せず遊んでいる者を、『極道』と呼んでいいます。なお、ヤクザものが自己を指して極道と言うのは、暴力団組員と呼ばれるのを嫌うためであるとされます。

暴力団が極道を称するのは、かつての侠客に憧れを抱いているのが理由であるとされるが、実際の活動は反社会行動集団を指します。少なくとも一般人側から用いる場合は、侠客とは違って美称というニュアンスは全く無く、完全に蔑称です。

ヤクザという意味は本来『何の役にも立たない』と云う意味であり、極道という言葉の意味とは微妙な差異があるが、世間一般ではヤクザも極道もほぼ同意に取られます。

ヤクザも極道も「暴力団」に変わりはなく、法的な定義ではどちらも同じ「暴力団員」です。また、暴力団員ではなくとも、反社会的な行動をする者をヤクザまたはヤクザ者と呼ぶこともあります。

その他の説明





(参考2)
※1 祇園会合所についての推理 祇園の歴史

待合(まちあい)は、待ち合わせや会合のための場所を提供する貸席業で、主に芸妓との遊興や飲食を目的として利用された。京都でお茶屋と呼ばれる業態に相当する。

今日ではほとんど死語であるが、法律用語に残っており、風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律第2条第1項第2号に「待合、料理店、カフェーその他設備を設けて客の接待をして客に遊興又は飲食をさせる営業」という規定がある。

(明治〜昭和期に)待合、料亭(料理屋)、芸妓置屋はいわゆる三業と呼ばれる風俗営業であった(関西などは、置屋と貸席の二業組織が多かった)。待合の営業には警察の許可が必要であり、一定の指定区域以外には認められなかった。

そこで、知恵ある重太郎は、待合を「会合所」という名前に変えて登録し、さすれば警察の許可も要らないし、警察の指図からも逃れられると考えたのではないだろうか。

加えて、警察への届け出とは別に、京都の祇園で待合をやろうとすれば、その筋の許可、特に庇護が絶対に必要である。だから、重太郎は「いろはの幸太郎」に近づいたのではないだろうかと、推理する。

さらに、お茶屋稼業こそ、客商売の最たるものであるからして、起業してもなかなか祇園会合所の事業も思うようにいかず、王仁三郎の勧めもあって、廃業して堅気になったのではないだろうか。順調ならば、女を働かして利益を取るという、こんな面白い商売はない筈なので、彼が廃業する訳がないと思えるからだ。




(参考3)

山田という姓の名字由来
全国82万人で12位と大変に多い名字
①古代の山田氏には、山田臣、山田連、山田県主。
②平城天皇の山田皇子子孫。
③源氏、平氏、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)などにもみられる。
④摂津国八部郡山田庄発祥の族は物部氏。
⑤清和源氏高屋氏族、穂積氏流ほか。
家紋は巴、藤、剣かたばみ、五七桐、茶の実、丸に八の字などがある。
語源は、山の中の田んぼ。

坪田という姓の名字由来
全国1.6万人で1,096位と大変に少ない名字
①徳川家に仕える幕臣は中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。
②ほか現岡山県南東部である備前。
③現長野県である信濃。
④現三重県である伊勢、志摩にもみられる。
⑤徳島藩の士族にみられる。
福井県の坪田は第38代天智天皇の重臣藤原鎌足(614-69)の子孫といわれ、「抱き柏」や「結び雁(かり)金(がね)」「下り藤」「違い鷹の羽」などさまざまな家紋を使う。因みに、自分の家紋は、鷹の羽違い。






(参考4)



京都久御山町にある山田家住宅copy site九御山町HP


旧山田家住宅(主屋・長屋門・長塀)は、平成22年4月28日国登録有形文化財に登録。

旧山田家住宅は、京都府久世郡久御山町北西部の東一口(ひがしいもあらい)にあり、今は干拓されて面影はありませんが、周囲16キロ㍍、面積800ヘクタールに及んだ巨椋池(おぐらいけ)の南西に位置しています。山田家は本山田とよばれ、淀川・巨椋池の漁業者の代表として御牧郷13カ村をまとめる大庄屋でした。

敷地は、およそ東西40m、南北30mで水害の危険を考えて石垣の上に築かれています。入口の長屋門は、飾り瓦を棟にのせた本瓦葺や漆喰塗の壁、与力窓、出格子が付くなど、武家屋敷のような重厚な構えをみせ、往時の格式を偲ぶことができます。

規模は、東西約27m、南北約4m、入母屋造で組棟の上段に松葉菱、下段に「丸に五つ引き」家紋の瓦が組み込まれています。外観の意匠は往時の状態が受け継がれ、建築史・歴史的、文化的に興味深い貴重な建物です。

主屋は、東西約20m、南北約13m、入母屋造で、式台を備える玄関、居室部には網代や鯉の欄間、京狩野鶴沢派3代鶴沢探索の落款のある雲竜が描かれた襖絵など意匠を凝らした座敷が残っており、大庄屋としての趣を伝えています。

建築年代は、建築様式からみて18世紀末から19世紀初め頃の建築と推測されます。※所有者の山田賀繼(やまだ・よしつぐ)さんから久御山町へ寄贈され、平成25年8月1日から町の文化財として管理し、貴重な歴史資料として活用されています。






(参考5)


青森にある坪田家住宅copy site


時期 〈江戸時代末期〉
坪田家の先祖は、戦国時代から江戸時代初めにかけて、近江(滋賀県)から津軽(王余魚沢)に移り住んだ商人で、旧大豆坂街道で「峠の茶屋」を営み、寛政年間(1789~1801)頃から農業をはじめ、幕末には王余魚沢随一の豪農となったといわれている。
 
坪田家住宅は、寄棟茅葺屋根に木造軸組構法で、じょいと呼ばれる居間の奥に、整形四間取(同じ形・同じ大きさの部屋を4部屋もつこと)をもつ上層農家特有の住居形態と、「ちょうば(金銭を扱う場所)」をもつ商家の住居形態の両方を見ることができる建物である。また、「なかのま」と「まえのま」上の中二階部分に、切り上げ窓をもつ雪深い地区の農家住宅の特徴がよく保存されており、江戸時代末期の青森県を代表する建物である。








余談2019年6月22日に追加記載
Muzirakabの御告げ


偽書と酷評されつつも、和田喜八郎氏によって公開された文献で、別名「和田家文書」とも呼ばれている「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」に次のような一文がある。

「その昔・・・・、神武天皇の東征によって大和を追われた長髄彦(ながすねひこ)の一族が、蘇辺(アソベ)族、津保化(ツボケ)族などと呼ばれた津軽の原住民を平定してアラハバキ王国なるものを建て、大和朝廷に抵抗し続けたとするものです。このアラハバキの子孫は中世の安倍氏、近世の秋田氏となり、現在も残っているという」

この津保化(ツボケ)族という民族は、北極東アジアのツングース地方からサハリンに渡り、そのサハリンから丸木舟で北海道へ、北海道の南東部海岸から更に船で津軽半島にまで渡ってきた民族だといわれている。

好戦的な津保化らは、土着の温和な民族であった阿蘇辺(アソベ)族を虐げ、一時は津軽半島一帯を平定したという。


また、東京学芸大学教授の西村氏は、『東日流外三郡誌』の描く古代・中世史像として、次のように述べている。

1)アジア大陸から渡来した阿蘇辺族・津保化族の伝承

『東日流外三郡誌』は、東日流太古の民として、まずアジア大陸の粛慎族を祖とする阿蘇辺族に関する伝承を記している。しかし、この阿蘇辺族は、同じくアジア大陸の靺鞨族(まっかつぞく)を祖とする津保化族の侵入と岩木山の大噴火のため、そのほとんどが滅び去った。その後、中国の晋では恵王帝の群公子が殺されるといった内紛が生じたが、その難民も大挙して津軽に漂着し、津保化族と融和定住するに至った。

 この様な日本北辺の広く外に開かれた原風景の記述は、実証的裏付けが乏しい以上、絵空事として退けることも容易であろう。しかし、太古の時代からこの様な民族移動がなされて来た蓋然性もあながち否定は出来ない。

『日本書紀』の660年(斉明6年)の条には、阿倍比羅夫が陸奥の蝦夷を兵とする軍船200艘を率いて粛慎を伐った旨の記事が見られ、また、724年(神亀元年)に大野朝臣東人が建立したとされる「多賀城碑」には、「靺鞨国界去三千里」の字句も見られる。

この様な事実は、東北地方と東アジア大陸の間に古くから緊密な交流が続いて来たことを示すものかも知れない。

 ここで留意すべきは、『東日流外三郡誌』においては、この伝承への言及が安東氏の中世における海上交易活動の活発な展開を描く伏線ともなっている点である。


そこで考察だが、これらの文章で指摘されている、族の「津保化(ツボケ)」という発音は、聞く人によっては、つぼき、つぼか、つぼた等と聞こえることから、Tsubota(坪田)の原音とも言えなくもない。

また、現在のホーランドには Zbota(ズボタ、スボタ、ツボタ)という名前はFacebook等でも頻繁に見られて、一般化している。更に、かつて、僕が若かりし頃、米国のシリコンバレーにあるZilog(ザイログ)社に商用で訪問した時、自己紹介で坪田という僕の名前を聞いた彼らは、「ポーランドやロシア、ウクライナに君の先祖がいるのか」等としきりに質問してきたことを、今でもはっきりと覚えている。

最後に結論を言おう。つまり、苗字のTsubotaという音源は、アジア極北シベリア一帯のスラブ民族の影響を大きく受けた名前なのかもしれない。

民族を特定するのは、彼ら民俗の固有の言語しかない。外見は似ていても、中国人と日本人は言葉が違う。だから言葉こそが、民族を識別する唯一の方法なのだ。

遠い昔のこと、彼らは僕らを見た時に、津保化(ツボケ)と言ったに違いない。だからツボケ族と言われたのである。そういえば、僕の体毛の濃ゆいところや薄茶色の細目、長身短足の体形等も、アジア極北由来のDNAのなせる業であろう。名は体を現すというからにして、むべなるかなと最近では夢想するようにさえ、なってきたのである。


屈捺失律(クナシリ)の惣部酋長(そうぶしゅうちょう)の貲吉諾謁(ツキノエ)の肖像
中国製の錦《蝦夷錦》や玉類を身に着けたアイヌ酋長のいでたちと着物
写真のClickでアイヌ民族紹介の頁へ
アイヌ民族、阿蘇辺族、津保化族との関係
アイヌ民族
アイヌの物語と音声

ツボケ族はアムーム川一帯に住んでいたニヴフ族が源流ではないかという説もある。

シベリアに住む少数民族の顔Site

上の写真の人は、2人共ニヴフ人であるが、彼等の言語ニヴフ語は世界中のどの言語とも関連がなく、ニヴフの人々がどこから極東に移住してきたかは不明である。

ニヴフ族(村上春樹による生態解説)の一部はサハリンに、一部はアムール川の河口付近に居住するという。更にその一部が、サハリンから北海道へ、北海道から津軽に渡ってきたのではないかと、考えられている。尚、ロシア語では彼等のことをギリヤーク(Gilyak 複数形はギリヤーキ Gilyaki )と呼んでいる。

この人達が、私の遠い先祖と共に血のつながりを持っている民族であるのかも知れない。彼らのDNAと私のそれとを詳細に調べ上げれば真実が分かるかも知れないが、これは後世に託そう。而して、いろはの幸太郎から始まった、この長い長い旅を、ここで終えることにしよう。

※ニヴフの町近くに現在あるロシアのユダヤ自治州(首都ビロビジャン)
ビロビジャン計画 ピロピジャン市と新潟市





これは私の構想から生まれ、提示してあるcopy siteのコピペと、私の推論で組み立てられたCollage作品であります。また、本作は著作権に抵触しておりますので、ここだけに留め置き、電子書籍等にして一般に販売したりする心算ありません。では、諸君さらばじゃ。

田楽男






「瀧口入道」 高山樗牛(clickで原文可読)朗読を聞きつつ読むは尚良し
平家物語 「瀧口入道と横笛」
高山樗牛(本名/林次郎)「瀧口入道」解説












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